厚生労働省は9日、新型コロナウイルスのワクチン接種を受けた医療従事者9人が、重いアレルギー症状のアナフィラキシーとして報告されたと発表した。国内でこの症状の報告は計17人となった。厚労省は今後、専門家の意見を聞き、接種との因果関係を調べる。
厚労省によると、9人は20~50歳代の女性。8日に接種を受け、30分後までを中心に、かゆみ、息苦しさ、吐き気などの症状が出た。投薬を受けるなどして全員症状は改善したが、経過観察のため少なくとも5人が入院。うち40歳代の女性は、入院して症状が治まった後、再び発症した。医療機関からの報告では9人とも接種と「関連あり」とされた。
9日までに国内で接種を受けた人は計10万7558人。アナフィラキシーと報告された17人は全員が女性で、厚労省の有識者部会で部会長を務める森尾友宏・東京医科歯科大教授は「アナフィラキシーに該当するかも含めて評価が必要」とするコメントを発表した。
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女性に「所持金が基準超」「施設入所が条件」誤った説明、生活保護申請受理せず
横浜市は9日、神奈川区役所に生活保護申請に訪れた20歳代女性に対し、職員が制度の誤った説明を行うなどして、申請を受理しなかったと明らかにした。市の担当幹部らは記者会見で「本来なら受け取るべきで、不適切な対応だった。深く反省し、おわび申し上げます」と謝罪した。
市によると、女性は2月22日に申請書を持って来所したが、対応した40歳代の女性職員が「所持金が基準を超えている」「施設入所が条件」などと認識させる誤った説明をしたという。
女性には既に謝罪し、今後は制度に関する職員研修などを実施するとした。
女性を支援した一般社団法人つくろい東京ファンドなどの6団体は9日、市に対し、再発防止策の徹底などを求める抗議・要請書を提出した。女性は東京都内の自治体で申請が受理されたという。
記者会見した同法人の稲葉剛代表理事は「相談員個人や神奈川区のみの問題ではなく、市の生活保護行政全体の問題だ」と指摘した。
震災時の報道でバッシング受けた福島・双葉病院 事実無根だった
いつの時代も政治家は失言をするもの。10年前の東日本大震災後も、政治家の失言が相次いだ。「知恵を出さないやつは助けない」(2011年7月、松本龍元復興対策担当相)、「(原発事故で)死亡者が出ている状況ではない」(2013年6月、高市早苗・元自民党政調会長)、「最後は金目」(2014年6月、石原伸晃元環境相)、「東北でよかった」(2017年4月、今村雅弘元復興相)など挙げればキリがない。
2011年9月、鉢呂吉雄経産相(当時)は福島原発周辺の自治体を「死の町」と呼び、福島第一原発視察後のオフレコ取材で「放射能つけちゃうぞ」と発言したとして、辞任に追い込まれた。
現在も立憲民主党所属の参院議員である鉢呂氏にコメントを求めたが、「今回は御遠慮したい」と断わりがあった。
政治家たちが無神経で配慮のない失言をする一方で、被災地にありながら、大きなバッシングを受けたのは福島県大熊町にある双葉病院だ。原発事故で取り残された入院患者の救助が遅れたために、約50人の患者が命を落とした。3月17日、県が入院患者の救出状況について「病院関係者は1人も残っていなかった」と置き去りにしたかのような発表を行ない、メディアがそれを一斉に報じた。
しかし、真実は違った。電気も水道もストップし、放射線量も高いなか、鈴木市郎院長をはじめ4人のスタッフは病院に留まり、看護を続けていた。震災直後から双葉病院を取材するジャーナリストの森功氏が語る。
「双葉病院がある地域は現在も帰還困難地域に指定されています。病院の敷地内は無造作に木が生い茂り雑木林のようなのに、病院内はベッドや点滴台、散乱したオムツまで震災当時のまま。
鈴木院長は2年前にがんで亡くなられたが、病院関係者は今も事実無根の報道の影響で心ない人から時折罵詈雑言を浴びている」
震災の爪痕は、かたちとして残っているものだけではない。
撮影/山崎力夫 取材/森功
※週刊ポスト2021年3月19・26日号
大都市初、京都市が「別荘税」導入へ 子育て世代が市外流出
京都市は9日までに、所有しながら生活していない「非居住住宅」の戸主に対し、法定外普通税として新たに課税する方針を固めた。財政難への対応に加え、首都圏や海外の富裕層に市内のマンション、空き家が別荘(セカンドハウス)として買われ、京都の未来を担う子育て世代が住まいを確保できず市外に流出している実態を踏まえた。国内では静岡県熱海市に別荘税の先例があるものの、大都市での実施は初めて。2018年に導入した宿泊税に続き、新税で年間最大約20億円の税収を見込む。公平性の担保など課題もあり、全国の自治体から注目されそうだ。
京都市では近年の観光ブームを受け、首都圏や海外、特に中国の富裕層が物件を競って買い、マンション価格が急騰する一因となっていた。住民票の届け出がないため、市民税の税収が見込めない上、30代の市外転出に拍車をかけていると問題視されている。門川大作市長は昨年2月の市長選で「セカンドハウス所有者に対し、適正な負担のあり方を検討し、実行する」との公約を掲げていた。市長が同8月、新税導入を有識者委員会に諮問し、答申案がこのほどまとまった。
答申案では、富裕層が資産として保有したり、週末などに滞在したりする別荘や、生活せずに管理するだけの空き家といった「非居住住宅」の所有者を納税義務者とする。道路や水道など公共施設整備の利用に見合った負担を求める。対象地域は「市街化区域」に限定。課税免除対象の案として、賃貸や売却予定、事業での使用のほか、市条例に基づき保全対象となる京町家などを想定する。その上で課税対象は約1万7千戸になると見込む。
税額の算出は、資産価値を表す額に一定税率▽家屋の固定資産評価額を階層に分けての累進制▽家屋の床面積1平方メートル当たりに一定額-といった3案を示す。これにより税収は8億~20億円と試算。具体例として、中京区の「田の字地区」にある分譲マンションの別荘(床面積100平方メートル)が6万5千~43万円。右京区嵐山の戸建て別荘(同300平方メートル)が12万~43万円などとする。
市は答申案について市民意見を今月19日まで募集。有識者委から4月に答申を受け、条例案を具体化する構えだ。
震災4日前、東電が報告した大津波の想定 「砂上の楼閣―原発と地震―」第9回
2008年夏、東京電力は福島第1原発を襲う可能性がある大津波の想定について、対応を「先送り」した。だが、新たな難題が持ち上がる。平安時代の869年に起きた貞観地震の大津波が、福島沿岸に及んだことが解明され始めたのだ。政府の地震調査委員会が貞観津波の研究成果を公表すると知った経済産業省原子力安全・保安院に対し、東電は以前から社内で計算していた高さ15・7mの津波想定を初めて報告した。東日本大震災の4日前のことだった。(共同通信=鎮目宰司)
▽宿題
新潟県中越沖地震(07年)の影響で、保安院は地震想定を中心に、耐震指針に適合しているかを調べるバックチェックの中間報告を求めていた。貞観の大津波が原発に影響する可能性が初めて指摘されたのは09年6~7月、有識者委員の審査会合だった。「貞観の地震で非常にでかい津波が来ている。全く触れられていない」。貞観津波の調査を手がけていた産業技術総合研究所の岡村行信氏が疑問の声を上げた。
福島第1原発を担当していた保安院の名倉繁樹審査官は、津波に関しては中間報告ではなく最終報告に含まれるからと、東電への「宿題」にするとしてその場を収めたが、名倉審査官も彼の上司・小林勝耐震安全審査室長も、東電から肝心なことは何も聞かされてはいなかった。
経産省原子力安全・保安院の耐震安全審査室長を務めた小林勝氏
彼らは直後の9月、東電に貞観津波についての現状報告を求め、研究結果を反映すると福島第1で8~9mの津波が想定されるとの計算結果を聞いた。原子炉建屋のある高さ10mの敷地には届かないかもしれないが、高さ4mの海沿いの敷地にある原子炉冷却用海水を取り込むポンプとモーターは水没する。ちなみに、貞観津波とは別の津波を想定して08年に算出していた最大15・7mのシミュレーションは報告しなかった。
東電は「土木学会で専門家に検討してもらい、自主的に対策する」と説明したとされる。15年9月に政府の事故調査委員会が公開した聴取記録によれば、名倉氏はこの時、東電に具体的な対策を早期に講じ、最終報告を急ぐよう求めたが拒否された。だが、名倉氏はその後、記憶違いだったとしてこの聴取内容を否定。同席した小林氏も「同席しなかった」などと、一時は虚偽の説明をしていた。東電を適切に指導、監督できなかったとの後悔が2人にあるのは間違いないだろう。いずれにせよ、貞観津波についてははっきりしないことが多く、東電の最終報告を待てばいいと判断したようだ。
▽沈黙
翌10年2月、福島県の佐藤雄平知事は、プルトニウムを原発で用いるプルサーマル発電を福島第1の3号機で行うことを認める条件として「3号機の耐震安全性確認」を表明した。プルトニウムを燃料として消費するはずだった高速増殖炉が実用化できず、窮余の策として政府が推進する国策だった。
福島第1の地震想定は中間報告で済んでいた。仮に福島県が、東電が示していない津波想定まで含めて確認を求めれば、プルサーマルの実施は遅れることになりかねない。津波には触れないことは、エネ庁と福島県の「あうんの呼吸」で方針が固まったが、小林室長は津波を無視しない方が良いと考えていた。
2010年8月、福島県庁で行われた原子力関係部長会議で、東京電力福島第1原発3号機でのプルサーマル実施了承を表明する佐藤雄平知事
小林氏によれば10年7月ごろ、上司の野口哲男・原子力発電安全審査課長に「原子力安全委員会に話を持っていって、議論した方が良い」と直訴した。野口課長は「その件は安全委と手を握っているから、余計なことを言うな」と退ける。ノンキャリの小林氏の人事を担当していた原昭吾・保安院広報課長には「あまり関わるとクビになる」と警告されたという。
小林室長は、それ以上どうすることもできずに沈黙した。
▽空費
保安院と地震調査委員会は、同じ政府の組織でありながら関係は希薄で、貞観津波の研究成果が反映された長期評価の改定が11年春に行われる予定だということに小林室長たちが気付いたのは直前になってからだった。
福島第1の津波想定がどうなったのか調べるよう、小林室長が名倉審査官に指示したのが11年2月22日。名倉氏から連絡を受けた東電の高尾誠氏は翌日、副社長になっていた武藤栄氏にメールでいきさつを報告した。武藤氏は、08年夏に「先送り」の方針を決めた人物だ。
津波に襲われた直後の東京電力福島第1原発。沖に戻る白い波が見える=2011年3月11日午後4時57分ごろ(国交省東北地方整備局撮影)
武藤副社長が高尾氏に返信したのは3日後の2月26日。「話の進展によっては大きな影響がありえるので、情報を共有しながら保安院との意思疎通を図ることができるように配慮をお願い致します」とあった。
高尾氏が小林室長と名倉審査官たちに、津波想定の現状を説明したのは3月7日。ここで初めて、08年に得られていた最大15・7mの計算結果を示した。
「対策工事はできるのか」「(対応が)遅すぎる」。小林室長も名倉審査官も立腹したが、東電は保安院のバックチェック審査に加わる有識者委員たちにも根回し済みだという。「委員さえ了解してくれれば、保安院も従ってくれる」。東電は何とかなると踏んでいた。
小林室長たちは東電の説明に、一応は納得した。高尾氏はすぐにメールで武藤副社長に報告を送る。それによれば、名倉審査官は比較的強い口調でこう言ったという。「口頭で指示を出すこともあり得る」。保安院にはこれが精いっぱいだったのだろう。
東北太平洋沿岸に大津波が来ることを警告した長期評価が出た02年以降、具体的な大津波対策は何一つ実現していなかった。「絵空事」だと真に受けず、ただただ、時間を空費しただけだった。(つづく)
「砂上の楼閣」第8回はこちら
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困窮する妊婦「死にたいと追い詰められた」…官民で支援の輪
貧困などで育児が困難な「特定妊婦」らに生活場所を提供するなどして、妊娠中から産後までサポートする取り組みが官民で広がっている。医療だけでなく、福祉の専門家も関わり、生まれたばかりの子どもの虐待防止につなげるのが狙い。新型コロナウイルスの感染拡大後、妊娠相談は増えており、支援を加速させている。(斎藤七月、川崎陽子)
大阪市の社会福祉法人「大念仏寺社会事業団」は昨年10月、市の委託を受け、産前・産後の母子支援に取り組む「ボ・ドームダイヤモンドルーム」を開設した。社会福祉士や助産師ら4人が交代で匿名の妊娠相談に電話やメールで応じる。必要があればスタッフが病院受診や役所への手続きに同行し、居住スペースも提供する。これまでに計20人の支援を始めた。
4月出産予定の女性(23)もその1人。未婚で長男(3)を1人で育ててきたが、別の男性との間に第2子を妊娠した。男性はその後女性の元を去り、生活は困窮。頼れる親族もおらず、知人から同施設を勧められた。
支援を受けながら長男と暮らす女性は「子どもと死にたいと追い詰められていたが、居場所ができてほっとした」と話した。
厚生労働省の調査では、2003~18年度に虐待(心中以外)で死亡した子ども833人のうち、生まれた日に死亡した「0日児」は156人。母親の年齢は10~20歳代が3分の2を占め、医療機関で生まれた子はいなかった。ほとんどの母親は行政との接点がなく、支援の網から漏れていた。
国は19年度、妊娠中から継続して特定妊婦らをサポートする自治体を財政面で後押しする事業を本格的に開始。自治体はこうした妊婦を早く支援につなげられるよう、妊娠相談の窓口を広げている。
また、出産後に生活が立ち行かなくなり虐待につながるケースもあるため、住まいがない妊婦には滞在場所を提供する。育児が可能な場合は、自立に向けた支援などを行う一方、育児が難しければ里親や特別養子縁組などを紹介する。
19年度は兵庫県や広島県など8自治体が始め、今年度は大阪府や大阪市、福岡市も導入した。広島県の担当者は「相談できずに困っている人を広く受け止めたい」とする。
コロナ禍で妊娠相談は増えている。「予期しない妊娠」の相談も多いとされ、厚労省の研究班は実態調査を始めた。
24時間無料で妊娠相談に応じる一般社団法人「小さないのちのドア」(神戸市)では、感染拡大の前に月20~30人ほどだった新規相談者が、昨年4月は89人と急増。同10月には155人に上った。危機感を強めた同法人は昨年12月、ネットなどで寄付を集め個室5部屋を備えた妊婦の滞在施設を開設。これまでに10~20歳代の計7人を受け入れた。
代表理事で助産師の永原郁子さん(63)は「コロナで収入も減り、行き場がなくなる妊婦は今後増える可能性がある」と指摘する。
日本財団(東京)は昨年夏、「妊娠SOS相談窓口推進事業」を開始。公募で選んだ12団体に2000万円を上限に助成し、相談窓口の設置や居場所が必要な妊婦の受け入れを促す。
一般社団法人「全国妊娠SOSネットワーク」(東京)の赤尾さく美理事は「貧困や虐待で身寄りがない妊婦は少なくない。自立に向けて切れ目ないサポートが必要だ」と話した。
◆特定妊婦=児童福祉法では、若年妊娠や経済的な困窮などで「出産前から支援を行うことが特に必要と認められる妊婦」と規定。全国の要保護児童対策地域協議会には7233人(2018年4月現在)が登録され、関係機関の支援対象になっている。ただ、登録されていない妊婦も一定数いるとみられる。
5歳餓死 搾取ママ友の優雅な生活…娘にバレエ、パチンコ三昧
瀟洒な一戸建ての2階には大きなベランダがあり、駐車場の奥には芝生の庭が広がっている。
「以前は、子供たちの楽しそうな声も聞こえてきたんですけどね……」(近所の住人)
いまは楽しそうな声どころか、人の気配も消えている。この家にはかつて、碇利恵容疑者(39)や5歳で命を絶たれた翔士郎くんが暮らしていた。
福岡県篠栗町、人口3万ほどのこの町がにわかに注目を集めたのは、3月2日、碇容疑者と赤堀恵美子容疑者(48)が保護責任者遺棄致死容疑で逮捕されてからだ。2人は子供が同じ幼稚園に通う保護者同士として知り合った。両容疑者を知るAさんはこう語る。
「利恵さんは、3人のお子さんたちのいいお母さんでした。お友達が家に遊びに来ると、みんなを優しく見守っていて……。利恵さんのご主人も子煩悩で、夏になると庭にプールを出してあげたり、本当に絵に描いたような幸せな一家だったんです」
そんな家族の運命が狂い始めたのが5年前の’16年4月。
「利恵さんと赤堀さんの2番目のお子さんたちが幼稚園に入園したんです。でも赤堀さんは以前に幼稚園とトラブルになったこともあって、彼女と友達になろうとするママはいませんでした。そんな様子をかわいそうに思ったのか、利恵さんが自分のママ友グループに誘ってあげたんです」
当時、碇容疑者はAさんにこう語っていたという。
「赤堀さんに声をかけてみたんだけど、話してみたらけっこう面白い人だったよ」
だが2人が急速に距離を縮めていくうちに、どんどんグループから仲間が減っていった。その理由についてAさんが続ける。
「赤堀さんは悪口を言うことも、ウソをつくことも平気な人でした。5年ほど前の保護者の親睦会でのことです。赤堀さんは“ゆうな”と名乗り、『こう見えても30歳です』と言っていました。でも今回の報道で、本名は恵美子で年齢も48歳だったと知って、あきれてしまいました。サバ読みどころか名前も全然違うじゃないですか。
赤堀さんと付き合うようになってから、利恵さんの言うこともおかしくなっていきました。
『赤堀さんから聞いたんだけど、あの人、本当は腹黒いらしいよ』とか、『赤堀さんが言ってたけど、あの人、すぐキレるから気をつけたほうがいいよ』とか……。彼女から何か吹き込まれたのか、1年後には私のことも無視するようになったんです」
赤堀容疑者は、次第に碇容疑者をコントロールできるようになっていったというが、それはママ友同士の人間関係を使った狡猾な手口によってだった。
「『あなたの子供が、ほかの子に砂を投げて、トラブルになっているけど、私が示談にしてあげる』などと、’18年春ごろから金銭を要求するようになったのです。
その後、赤堀容疑者は孤立させた碇容疑者に対し、共通のママ友の1人を“暴力団と関係のある人物”に仕立て上げます。『ボスが監視カメラで見張っている』『ボスが食べすぎだと言っている』などと言って、食事を制限するようになったわけですが、狭い人間関係をうまく利用していたようです」(全国紙・社会部記者)
’19年5月、赤堀容疑者は碇容疑者を離婚させることに成功しているが、それにもママ友の存在を利用していた。
別の知人Bさんによれば、「『ご主人が○○さん(※ママ友)と浮気している』と、信じ込ませたんです。もちろん浮気相手に仕立て上げられた女性は怒って、警察にも相談したそうです」
■知人を愕然とさせた碇容疑者の変わり果てた姿
一戸建てを出て、夫と離婚した碇容疑者と3人の子供たちに待っていたのは非道な搾取だった。前出のAさんはそのころに碇容疑者を見かけたことがあったという。
「以前はきれいに髪を染めていたのに、美容院にも行っていないようでした。それにガリガリに痩せていて別人のようになっていたんです。また無視されるのではないかと怖くて、声をかけることもできませんでしたが……」
Aさんは、その変わり果てた姿を思い出したのか声を詰まらせた。
また、前出の社会部記者は、
「“夫に慰謝料を請求する裁判に勝つためには、質素な暮らしをしなくてはいけない”と、貯金どころか生活保護費や児童扶養手当もむしり取られていたのです。食べ物を買うお金すら残してもらえず、一家は赤堀容疑者からときおり差し入れられる、少量の米やパン、菓子類などを分け合って生きていました。逆らうとそれすらも許されません。翔士郎くんは10日間水しか飲めないこともあったそうです」
’20年4月に翔士郎くんが亡くなったとき、体重は10kgほど。平均的な5歳児の半分にすぎなかった。だが信じがたいことに翔士郎くんの餓死後も、赤堀容疑者はまったく反省しなかったのだ。
翔士郎くんのための葬儀代、車を売った代金、碇容疑者が消費者金融から借りた数百万円……、赤堀容疑者が搾り取った額は、’18年春から’20年6月までの約27カ月で、なんと1,200万円にもなるという。
碇容疑者一家が痩せ衰えていくなか、“寄生”していた赤堀容疑者は優雅な生活を送っていた。
「赤堀夫妻はパチンコ店でよく見かけていたよ。夫婦で入れ代わり立ち代わり来ていたみたいだね」(赤堀家の知人)
「赤堀さんには2人の娘さんがいるのですが、バレエやピアノを習わせていると、言っていました」(前出のAさん)
碇容疑者が自分がだまされていることを知ったのは、翔士郎くん逝去の2カ月後のこと。保護責任者遺棄致死容疑に先んじて、詐欺や窃盗の疑いでも逮捕されている赤堀容疑者はいまだ容疑を否認しているという。
“あのときあの女に声をかけていなければ……”。わが子を失った碇容疑者はこの先どれほど、後悔の自問を繰り返していくことになるのだろうか。
「女性自身」2021年3月23日・30日合併号 掲載
「息子に与えられるものは“震災”と“原発”」震災後に東京キー局記者が福島に移住して得たもの
《震災から10年》「これだけの災害で、1年やそこらで撤退したら、笑いものですよ」社会部記者がTBSを辞めた理由 から続く
2011年3月11日、東日本大震災が発生した。17都道県で12万9,914棟の住宅が全壊し、25万8,591棟が半壊(内閣府「平成24年版防災白書」より)。人的被害は12都道県で死者1万5,859人、行方不明者3,021人(平成24年5月30日警察庁発表より)にのぼった。
未曽有の被害を引き起こした大災害から今年で10年。当時、TBS記者として被災地の取材をした木田修作さんは、震災発生の4年後にTBSを辞め、福島県に移住することを決めた。
木田さんはなぜ東京キー局を辞め、いま福島で何をしているのか。震災発生直後から現在に至るまでについてを振り返った。
(全2回の2回目)
◆◆◆
その日の朝、私は朝食を作っていた。ゆで卵ができあがる直前だった。その日は、仕事を早めに切り上げて、翌日から妻と行く温泉旅行の準備をする予定だった。
「もう一度、記者をやる気はないですか」
テレビユー福島にいる先輩記者からの連絡であった。文面に微かな反発を感じた。私は、ずっと記者のつもりで、やっていた。メディアにいる人間だけが、記者ではない。折しも、40年前にあったいわきの芸術運動に関わった人たちについてまとめたノンフィクションで、賞をとった頃でもあった。この気持ちは、いまも変わらない。食える、食えないが記者ではない。書くかどうか。それが記者だ。
部屋を見回した。忙しく朝の支度を整えている妻は身重であった。冬には息子が生まれる。気がかりなことはいくつもあった。TBSを辞めて以来、テレビのない生活をしていた。そんな人間に、放送記者が務まるのだろうか。加えて、いわきに生活の基盤ができつつあった。一生、付き合い続けるだろう友人たちもたくさんいる。TUFに入るとなれば、家は福島市になる。作った礎を一度、壊して作り直さねばならない。
震災直後の自分の言葉
2人の先達に相談をした。1人は、TUFに行くことを勧め、もう1人はどちらとも言わなかった。悩みはより、深くなった。
なぜ悩んでいるのだろう。断ればいいだけのことである。どこかで自分の中に、テレビの世界から逃げてきたという気持ちがあった。「1年やそこらで撤退したら笑いものになる」と先輩にぶち上げた、震災直後の自分の言葉も思い出した。
その一方で、メディアを辞めたことで得られた出会いもあったし、これまでいわきで仲間たちとともに続けてきた活動もたくさんあった。できることが、まだあるかもしれない。だけど、失うものも、あるかもしれない。どの道生活は大きく変わる。妻は反対した。断る理由は、いくらでもあった。
しかし、私は結局、放送記者となる道を選んだ。
海が好きな息子
2017年12月、木田家は3人になった。年が明けてから生まれる予定だったが、生き急ぎがちの両親に似たのか、ひと月ほど早い出産であった。決まり文句のように言われがちな「母子ともに健康」ということのありがたさを、身をもって知った。
息子の誕生日は、父の命日の前日であった。人生で最も辛かった日の前日が、必ず祝福の日となることは、私にとって大きな救いである。
不思議と息子は、海が好きである。大きな音は怖がるのに、波の音には引き寄せられていく。言葉を覚える前から、寄せては返す波を見つめ、歓喜の声を上げた。海沿いをドライブすれば、降りると言って聞かない。
相馬の原釜尾浜、青森の鯵ヶ沢、山形の西浜……。東北のいろんな海を歩いたが、彼がとびきり好きなのは、いわきの薄磯である。
いわきに行けば、夏でも冬でも、少しの時間があれば薄磯に立ち寄る。遠浅の白い砂浜と透けるような青の海は、福島で最も美しいと言われている。遠くには塩屋埼灯台を望み、いわきを代表する観光地でもある。
失われた街の上にできつつある、新しい街
薄磯は、8.5mの津波が押し寄せ、ほぼすべてが流された街である。122人が亡くなった。その後、途方もない高さの防潮堤が整備された。失われた街の上に防災緑地が造成され、新しい街ができつつある。
かつて、この海が大きく姿を変え、人や街を奪ったことを、彼はいつか知るだろう。それもまた、生きていく上で大切なことである。
「ざぶんざぶんするから、好き」
海を愛する理由を、息子はそう説明する。原体験の中に、この美しい海が刻み込まれていることは、とても豊かなことだと思う。彼が波にさらわれないよう、手をつなぎながら、海のない町に育った私はそんなことを考えていた。
私だけが東北にいる不思議
震災を経験し、息子といわきの海に立ち、福島のテレビ局で記者をする。
人生は、わからないことだらけだ。
先輩記者が、爆発事故のあったベイルートからレポートをしていた。TBS時代、警視庁クラブで彼と一緒に過ごした日々を懐かしく思い出した。そういえば、私も海外特派員を希望していた。いつかは海外へ。そのために、必要なキャリアを積もうと考えていた。
別の同僚は宮内庁から天皇陛下の代替わりを取材し、また別の同僚はニューヨークへ行った。同じ日々を過ごした彼女や彼を、テレビで見るたび、そういう人生もあったかもしれないと思うようになった。
後悔ではない。ただ、不思議な感じがするのだ。私だけが東北にいる。
東京にとって、3.11は年に1度訪れるメモリアル
TUFで働くようになって、しばらく連絡をとっていなかった同僚や先輩から、連絡を受けることも多くなった。被災地取材の相談を受けることも多い。
殊に連絡が多いのは3月である。
東京にとって、3.11は日常ではない。年に1度訪れる、メモリアルに過ぎない。「寄り添う」と言ってみたところで、日常を過ごしている私たちとの認識の差は、当然ながら大きい。その差を、殊更に責め立てるつもりもない。認識の差を埋めるため、東京の電波を使って、多くの人に知ってもらうように交通整理することも、地方局の務めであろう。すべての人間が、日常的に3.11を考える必要もない。私もまた、この時期に向けて、心血注いでニュースを伝えようとする1人である。
しかし……、と思う。
「静謐であるべきだ」と話す被災者がいるにも関わらず、3月を一方的に「震災の季節」にして、少なからぬ人たちを困惑させ、場合によっては踏みにじるようなメディアの身勝手さを、感じないわけでもない。
東北から問う3月
震災は、3月に起きた。だから3月に伝える。
この間に、どれほど被災地の人々を納得させられる論理があるだろう。おそらくほとんどない。私にできるのは、4月も5月も6月も、ただただ現場を歩き、人の話を聞き、伝えることだけである。少なくともそれが、東北にいる者の務めであろうと思っている。
私たちが東北から問う3月は、そうして過ごした1年の先にあるものでなくてはならない。
息子に与えるものと、息子から私に与えられるもの
2020年の夏、息子と2人で旅をした。裏磐梯と猪苗代。私は、直前まで仕事が立て込んで山や森を欲していたし、水が好きな相棒を満足させる必要もあった。初日は磐梯山の麓で新鮮な空気を吸い、翌日は猪苗代湖の波打ち際で過ごす。妻も久方ぶりに一人で過ごすことができる。そんな計画であった。
あまりの暑さから、息子はできることが増えた。ペットボトルを自分で開け、ストローなしで麦茶を飲めるようになり、湖では顔を水につけることができるようになった。私はいちいちそのことに感動し、彼は自分の進化に気づいていない。
私が息子に与えるものと、息子から私に与えられるもの。
私の人生でどちらが多いかといえば、圧倒的に後者だろう。その、数少ない私が与えられるものの中に、震災と原発事故があるのだと思う。
ただ、知ってほしい
いつか私は彼に、なぜ福島にいるのかを伝える日が来るだろう。生まれる前に、歴史に残るような大災害が起き、そして原発が爆発したこと。そのときに感じた、恐怖や怒りも伝えよう。同じように人を愛することの大切さも、感じていた。そして矢も楯もたまらず、私と妻は東京を飛び出し、東北に住むことになった。
そして、君が生まれた。
君は君の人生を生きればいいと思う。震災も原発事故も福島も背負わなくていい。ただ、知ってほしいと思うし、私は伝えていこうと思う。
涼しげにそびえる磐梯山を見ながら、そんなことを考え、しばらく会話が途切れた。彼はその間に、後部座席で眠ってしまった。
旅を終え帰宅した私たちは、そろって高熱を出した。夏風邪であった。結局、妻の負担を減らそうと思っていた私の計画は、まったくの裏目に出た。私は遊び、遊ばせすぎたことを反省し、妻は有給休暇をとり、息子は眠った。
(木田 修作/Webオリジナル(特集班))
釜石市防災センターで犠牲になった妻「あの日、『休んで』と言っていれば…」
「もうすぐ10年になるんだね」
岩手県釜石市鵜住居にある「釜石祈りのパーク」。東日本大震災で津波にのまれるなどして亡くなった人たちの名前が刻まれた「芳名板」がある。市内に住む、美容師、片桐浩一さん(51)が訪れた。妻で、当時、鵜住居幼稚園の臨時職員だった理香子さん(当時31)の名前もあり、訪れるたびに「芳名板」を撫でている。そのため、色が若干、変わっている。
「釜石祈りのパーク」は、「鵜住居地区防災センター」があった場所付近にある。理香子さんは、もうすぐ生まれるはずだった陽彩芽(ひいめ)ちゃんを身籠もっていた。妊娠9ヶ月だった。3月14日から産休の予定だった。
安全性を誤認されていた「仮の避難場所」
理香子さんが勤務していた鵜住居幼稚園は、防災センターに隣接していた。津波警報が鳴り響く中で避難をした。そして「防災センター」の2階にある「第一研修室」に避難していたと思われている。防災センターには200人以上が避難し、162人(市推計)が亡くなっている。本来ではあれば、「防災センター」は、津波が発生した場合の避難施設ではない。あくまでも、「避難訓練のための仮の避難場所」だった。しかし、地域住民の避難訓練でセンターが使用されていたために、「センター=避難所」と意識され、2010年のチリ津波でも、多くの住民が避難していた。
市の検証委員会によると、防災センターは、過去の津波の浸水域にあった。しかし、2007年7月の住民懇談会で、市側は「標高は高くないし危険なところという議論はあったが、浸水の可能性はあっても2階までは来ないだろう」という認識を示した。ただ、検証委の調査対象は地域住民の避難だけ。市の職員の避難行動は対象外だ。
鵜住居幼稚園には、当日は約60人の園児が通っていた。しかし、地震があったときには大半の園児は帰宅していた。園舎には園長や教諭の5人と、園児4人がいた。このうち園児2人は保護者が迎えに来た。教諭4人は園児2人と近くの防災センターに向かっていた。園長は市教委と連絡を取るために園舎に戻った。結果、園児2人は助かったが、園長と教諭3人が犠牲となった。園長は園舎の中で亡くなった。理香子さんを含む教諭は「防災センター」で亡くなったと思われる。
センターの瓦礫を利用した「祈りのパーク」
その「防災センター跡地」であることを示す碑はあるものの、具体的に、どこに建てられていたのかはわからなくなっている。「幼稚園」の痕跡もない。防災センターは解体されたが、命日に花や缶コーヒーを置いていた場所もわからなくなっている。ただ、「祈りのパーク」には、解体したセンターの壁の瓦礫が利用されている。
「祈りのパーク」に隣接して、震災伝承と防災教育のための施設「いのちをつなぐ未来館」がある。その中には、「防災センター」に関連する展示もある。津波到達地点を示す2階の壁の一部を見ながら、片桐さんは「屋上に上がれていればよかったんだろうけど」とつぶやいた。津波は、センターの2階の天井付近まで達した。誰もが屋上に上がれる設計ではないが、そうした設計だったら、死亡者は少なかったのではないかという思いがあるのだろう。
「でも(地震発生時に)園にいた子どもたちは助かったからね。そこが一番なんだろうけど。ただ、(鵜住居幼稚園の記載部分に)3名死亡と書いてあるが、あまり見たくないですね。しょうがないけど」
“10年の節目”というけれど「どこで節目をつければいいのか」
発災から10年が経つ。どう感じているのだろうか。
「10年経っても変わらないね、正直。マスコミは“10年の節目”という言葉を使うけれど、どこで節目をつければいいのだろう。その言葉自体がわからない。何も、(当時と)かわらない。そこにある、嫁の存在も変わらない」
筆者はこれまで片桐さんと取材を通じて話をしてきた。理香子さんがそばにいる感じがするという話をしていたが、10年経っても同じなのだろうか。
「正直に言えば、自分自身の仕事であったり、新型コロナの状況もあったりで、忙しさのなかで感じないこともあるし、逆に、頼ることもある。『いま、こうなんだよ。助けてくれないか』って。神頼みではないけれど、そう思うことがある。実際、(美容室の)経営は厳しい。疲れたときとかに頼ります」
震災10年は、昨年同様に、コロナ禍の中で迎える。美容室という客商売は、新型コロナとは相性がよくない。
「コロナで苦しくなることは正直あった。美容室は、人との交流があって、新型コロナに感染しやすいと言われましたから。だから、お客さんは美容室の利用を控えました。いつ来店するのか、読めなくなったんです。女性も来店を控えますし、男性も家族に言われて来なくなりました。髪を染めるのは自分で。髪を切るのは我慢する、という感じです。市販のヘアカラーが売れているというのはそういうことでしょう。だから、業界的には付加価値をつけないといけないですね」
『怖かった』ということを知ったほうがいいのではないか
2月13日には、福島県沖で地震が発生した。気象庁によると、マグニチュード7.3。釜石市の震度は4だった。東日本大震災の揺れほどではないが、多くの被災経験者が、当時を思い起こしたと言われている。
「10年前に引き戻されました。震度は4だったけれど、揺れが長くて、当時と似ていたんです。揺れが長く、そのときの感覚になりました。お客さんの話でも、津波がくると思って高台へ逃げた人もいますし、設置されるはずの避難所の場所まで逃げた人もいました。(東日本大震災の)経験が生きているんだなと思いました。何を持って逃げようかと思った人もいたようです。ただ、10年前に比べて、情報が早くなりました。今回はものすごく早い段階で『津波の心配はありません』と出ましたね」
震災後、片桐さんは、津波教育について、ことあるたびに言及している。現在はどう思っているのだろうか。
「言い方はおかしいんだけど、一番感じているのは、地震がありましたというトラウマがあるとか、津波を見て子どもが恐怖を覚えている、と聞いたりします。でも、それを言っていたら、助からないのではないか。怖いという状況を伝えないといけないのではないでしょうか。子どもに津波の映像を見せたくない親も多いけれど、『怖かった』ということを知ったほうがいいのではないか。そうではないと命を守れない。『てんでんこ』は散り散りになって逃げろということ。昔、津波災害を経験した人がその言葉を残したんです。でも、経験してない人が覚えていない。怖さを知らない。怖さを教えることが必要だと思います」
理香子さんが経験した津波を見たい、という思い
では2月13日の地震で、片桐さんはどう行動したのか。
「俺は、何もしなかったですね。やばい、逃げなきゃいけないという感覚になったけど、そのままでいた。今の自分の命が尽きてもなんの問題もないし、後悔もない。だから動かなかった。(理香子さんが)経験した津波を見たいというのもある。もし、生きていたら? 多分、『(逃げないのは)バカじゃないの?』と言うと思う。でも、あの人がいないから。あの人の経験したことを、苦しかったことを知らずにいるのは、自分の中では許されない。そんな思いをさせてしまったんです。自分が殺したわけじゃないけど、償えない。今でも、自分の責任と思っています」
ただ、当時は、片桐さんは釜石市の市街地にある美容室で仕事をしていた。理香子さんが働いていた鵜住居地区の鵜住居幼稚園までは車で15分ほどだ。当日の震度は6弱。店内のものは崩れていた。他の従業員を帰宅させ、自分のアパートが気になったために、帰ろうとした。店を出ると、アーケードの上に瓦礫が流れてくるのが見えた。家の屋根などが黒い水に押されて来ていた。当時の状況で、なぜ責任を感じるのか。
10年経っても「たられば」を思っている
「震災の日、『頭が痛いから休んで』と言っていればよかった。『具合が悪いから面倒みてくれ』と言えばよかった。もちろん、頭が痛いわけではないし、(理香子さんは)仕事を休んだことがないので、仕事へ行きました。でも、“そこにいる”理由があればよかったです。もちろん、何か言っていたとしても、『がんばれ』と言ったかもしれない。でも、なんか責任を感じるのが年々増えてきているんですよね。なにかしら、守れる、守ることができたのでは?と思ってしまう。でも、守れる手段はなくて。それに、自分と一緒の生活を、自分に会わなければよかったのではないかと考えるが、会わなくても、(被災した)同じ職場にいたかもしれないけれど」
10年経っても、「たられば」を思っている。それほど、理香子さんと、お腹にいた陽彩芽ちゃんを失った気持ちを引きずっているのだろう。
「子どもがほしいとなったときに、(理香子さんは)自分の仕事よりも、自分の生活を考える人だった。だから、仕事を保育園から幼稚園に変えたんです。保育園は、幼稚園よりも仕事の時間が長い。3歳児未満の子どもが多いので、体力的にも負担はかかっていた。でも、幼稚園は3歳児以上が多く、時間も早く帰れる。以前は、釜石保育園に勤めていたんです。地震があったときに(釜石保育園の園児たちが)高台へ逃げたと知ったときには、助かってよかったと思った。嫁が見ていた子どももいたしね。
地震の直後に、鵜住居に走っていればよかった。自分の商売があったので、店に残ってしまった。地震直後に行けば、津波がくる前に現場にはついたはず。渋滞は、こっちから行くには発生していなかったし」
実家に戻るために部屋を整理して……
後悔の念は消えるものではないのだろう。ただ、自身の生活にも変化がある。
「この前、部屋を整理してて、(理香子さんの)下着を捨てたんです。というのも、親も高齢なので、実家に戻らないといけないと思って。そのため、今のアパートの荷物を片付けないといけないと思ったんです。それで、下着を袋につめたんですが、2ヶ月放置した。なかなか捨てることができなかった。でも、捨てなきゃいけない。だって、生きている人、親を守らないといけないから。捨てるのは断腸の思いだった。捨てられないのは、寂しさというよりも、(理香子さんがいた)形がなくなっていくと思ったから」
震災10年は、ほぼ片桐さんの40代の人生とも重なる。どんな40代だったのか。
「結婚したのも、震災があったのも、人生の一番の悲しみも、悔しさも、苦しかったのも40代に人生のすべてが積み込まれている。震災があったからこそ出会った人もいる。一人という時間を長く過ごしたのも40代。人生のすべてを経験したかもしれない。今後は何も考えてない。なるようにしかならない。仕事を一生懸命するしかないですね」
そう話した片桐さんは、今年の3月11日も地震発生の時間と津波襲来の時間には、鵜住居地区を訪れる予定だ。
写真=渋井哲也
(渋井 哲也)
報道の執念伝えた「石巻日日新聞」の壁新聞…「死ぬまで石巻に住んで死ぬまで撮り続けたい」渡邊裕紀さん
宮城県石巻市の地域紙「石巻日日(ひび)新聞」は震災直後、手書きの壁新聞を避難所に掲示して報道の執念を世に伝えた。同紙記者・渡邊裕紀さん(39)は被災者の声に耳を傾け、写真家としても被災地の今を撮り続けてきた。あれから10年。ファインダー越しに見つめてきた被災地への思いを聞いた。(北野 新太)
震災を経験し、今を生きる全ての人々は10年分の年齢を等しく重ねてきた。渡邊さんにとって3月11日は個人的な節目でもある。
「自分、誕生日なんですよ。あの日、30歳になったんです。あれからの誕生日はいつも複雑な気持ちでした。ひとつ年を取るのと一緒にあの日を迎えるので」
カメラマンとして写真館に勤めていたが、2010年、石巻日日新聞に紙面制作担当として入社した。半年後に迎えたのが「3・11」だった。
「今も記憶は鮮明に残っています。地震が起きて津波が来たので、会社の近くにある山に避難しました。朝に同僚からもらったあんぱんを頬張りながら川のようになった夜の街に降りて、沈んじゃったと思っていた自宅は何とか無事で…。あと、夜空の星がとてもきれいだったことを覚えています」
印刷機能を失った石巻日日新聞は6日間、壁新聞を避難所に掲示。印刷再開後も避難所で無料配布するなど地域紙としての役割を担い続けた。渡邊さんは翌年から記者になり、カメラを手に被災地の現状を追ってきた。
「たしかに街は日々変わり、日常を取り戻しつつあります。震災の話をする機会も少なくなりました。でも『復興』の捉え方はそれぞれ違います。自分は肉親を失いませんでしたが、たくさんの方は失った。新聞に『復興への階段』という欄もありますけど、それぞれで歩みは異なるんです」
震災前、生まれ育った石巻に思い入れはなかった。
「退廃的で遊ぶところもないようなネガティブなイメージしかなかったんです。でも、震災後に人々の結束を知りました。今は郷土としての価値、地方であることの魅力を強く認識するようになりました」
石巻日日新聞は今も地域に寄り添い、地域に根ざした報道を続けている。
「もう石巻を出る気持ちはありません。死ぬまで石巻に住んで、死ぬまで石巻を撮り続けたいです。カメラを持った者として、何につながるかは分からなくても残していきたいです」
あの日、30歳を迎えた青年は11日、40歳になる。
「1年後や2年後は『おめでとう』なんて言われませんでしたけど、5、6、7年と過ぎると、お祝いしてもいいのかな、と思えるようになりましたね」
◆石巻日日新聞(いしのまきひびしんぶん)1912年創刊。石巻市、東松島市、女川町を発行地域とする夕刊日刊紙。発行部数は8000部。震災当日、停電と浸水で輪転機が使用不能になったが、手書きの壁新聞を6日間にわたって避難所6か所に掲示。報道姿勢が世界中のメディアで話題になり、新聞協会賞などを受賞。月刊誌「地域みっちゃく生活情報誌んだっちゃ」も発行。社員28人。