戦後80年。戦争の爪痕は、焼野原になった都市や地上戦が行なわれた島だけでなく、全国各地に今も残る。戦争遺跡保存全国ネットワークの幅国洋氏に訊いた。
「数多く残るのが軍関係の庁舎や倉庫。こうした施設は国の史跡に指定されているものも多い。また軍用機の地下工場として、東海・北陸・近畿を中心に相当な数の地下壕が掘削されています」
新たに発見されるものがある一方、放置や都市開発により消滅する遺構のほうが圧倒的に多い。
東京・渋谷の境界標石や高知の前浜掩体群、長崎の一本柱鳥居のように、日常風景に溶け込んでいる遺構もある。
戦後80年を迎え、戦争体験者の声を直接聞く機会が少なくなるなか、身近にある遺構から戦争に思いを馳せる意義もあるだろう。
●軍艦防波堤(福岡県北九州市)
海軍艦船の一部は戦後、国内で防波堤に利用された。若松港の港口にある防波堤は、1948(昭和23)年に「冬月」「涼月」「柳(初代)」の3駆逐艦を沈めて造られた。現在は「柳」だけが形状をとどめている。正式名称は響灘沈艦護岸。
●中之院 軍人像(愛知県南知多町)
山間の古刹・天台宗中之院の一角に、コンクリートや石造りの兵士像92体が並ぶ。像の多くは、1937(昭和12)年8月の上海上陸作戦で落命した名古屋第3師団歩兵第6連隊所属の兵士。遺族が慰霊のために遺族一時金を使って写真をもとに制作を依頼した。
●造兵廠忠海兵器製造所跡(広島県竹原市)
瀬戸内海に浮かぶ大久野島では、1929(昭和4)年から終戦まで陸軍が毒ガスを製造していた。工場の電力を賄った発電場では風船爆弾のテストなども行なわれた。毒ガス製造の実態は1984(昭和59)年までほとんど知られていなかった。
●旧広島陸軍被服支廠(広島県広島市)
終戦まで軍服や軍靴などの生産・貯蔵を担った施設。原爆投下の爆心地から2.6kmの距離に位置するも、厚さ60cmの外壁のおかげで倒壊を免れ、被爆者の救護所として使用された。歪んだ鉄扉が原爆の爆風の強さを物語る。国指定重要文化財。
●山王神社の一本柱鳥居(長崎県長崎市)
旧浦上街道沿いに佇む山王神社は、原爆投下の爆心地から約800mに位置する。参道には当時、4基の鳥居があったが、原爆の爆風によって2基が倒壊。二の鳥居は半分が吹き飛ばされたものの一本柱の状態で残り、原爆の悲惨さを今に伝える。
●硫黄島のトーチカ(東京都小笠原村)
1945(昭和20)年2月19日~3月26日、硫黄島では日米軍が死闘を繰り広げ、併せて2万9000人近くが戦死した。日本軍の拠点だった摺鉢山(写真奥)は2月23日、米軍に制圧された。現在、自衛隊が管理する島にはトーチカ(写真)や砲台跡などが残存する。
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参院選落選・山尾志桜里氏が明かした“国民民主党への本音”と“国政復帰への強い意欲”「組織としての統治不全は相当深刻だが…」「1人で判断せず、決断していきたい」
〈7月1日の出馬表明から3週間という圧倒的な時間不足。政党・企業・労組などから一切の支援のない完全無所属。脅迫や中傷などが支援者の皆さんまで傷つける場面もあったと思います。それでも濁りなく誇りの持てる選挙戦を作り上げてくれたのはお一人おひとりの『個』の力でした。お一人おひとりの強さと優しさでした〉
7月20日に投開票された参院選で、東京選挙区から無所属で立候補した山尾志桜里氏。同選挙区の改選定数は6だが、今回は非改選の欠員1を補充する合併選挙だったため7人が当選できた。しかし、結果は10万票を得たものの、当選ラインに遠く及ばない16位に終わった。
山尾氏は投開票日翌日の21日に自身のXを更新し、【心からの感謝を込めて】と題した参院選の振り返りを掲載。選挙戦の手応えや関係者への感謝の思いをつづる一方、敗因については冒頭のように「時間不足」や「準備不足」を挙げた。
山尾氏は当初、国民民主党から比例代表で出馬する予定だったが、過去の不倫スキャンダルが再燃し、山尾氏の公認を内定した国民民主党の支持率が急落する“山尾ショック”が起きた。
同氏が参院選への出馬を表明するに至る経過を、全国紙政治部記者はこう説明する。
「山尾氏は自身が起こした“ショック”を収拾しようと6月10日に記者会見を開きましたが、焦点だった不倫スキャンダルを巡り、『今、新たに言葉を紡ぐ、具体的に話をするのはさまざまな人のご事情があるのでご容赦いただきたい』とゼロ回答を貫きました。
会見は大失敗に終わり、さらなる世論の反発を招きました。会見を受けて、国民民主党は『十分な理解と信頼を得られない』として、山尾氏の公認内定を取り消しましたが、党の対応に激怒した山尾氏は同党にすぐさま離党届を提出したのです」
「国政への再挑戦」に燃える山尾氏は結局、全国最多の7枠で、知名度の高さが有利に働く東京選挙区からの出馬を決断したわけだが、果たして勝算はあったのか──。
国民民主党関係者はこう指摘する。
山尾氏の集票力とは
「公認を内定したのにネット世論の反発が大きいからと内定を取り消し、対応が二転三転した党への批判は相当なものでした。山尾氏の記者会見の内容はだいぶ残念な結果でしたが、山尾氏が党からハシゴを外される格好になったのも事実で、一定の“同情票”を集められると踏んで、無所属での立候補に踏み切ったのではないでしょうか」
山尾氏の得票数については、政党の支援もないことから「せいぜい数万票」(永田町関係者)との見方もあったが、蓋を開けてみると同氏は10万6230票と、10万票以上を獲得した。
「根本的に腐っている」呆れる伊東市民、田久保市長が衝撃の続投宣言に“チラ見せ”以上の怒り
学歴詐称疑惑の渦中にある静岡県伊東市の田久保眞紀市長が、7月31日に記者会見を開き、かつて表明していた辞職を撤回すると宣言した。突然の翻意に、世間からは批判の声が相次いでいる。
田久保市長がまさかの“続投”表明
「そもそもの疑惑の発端は6月上旬、“市長の経歴は虚偽”と指摘する投書が市議会に届いたことでした。田久保市長は市の広報誌や選挙資料などに“東洋大学法学部卒”と記していましたが、大学側の回答により除籍処分だったことが判明。
市議会は百条委員会を設置し、卒業証書の提出を求めましたが、市長はこれを拒否しています」(全国紙社会部記者)
この問題を受けて田久保市長は7月7日、市議会で辞職勧告決議が全会一致で可決されたことを受け、辞意を表明。一時は市長選への再出馬の意向も示していた。
7月31日夜に開かれた記者会見で、田久保市長は「市民の皆様には何度お詫びを申し上げてもまだまだお詫びはしきれない」と謝罪したうえで、「“頑張ってほしい。負けないでほしい。最後までやり遂げろ”と。そういった言葉の数々が多く含まれておりました」と、市民からの激励に言及。
さらに、
「改革すべき事柄、それから実に多く山積みする問題。その改革への道はまだ本当に始まったばかりであるということ。そのような大切なことを、改めて市民の皆様の声で強く思い出させていただきました」
と述べ、まさかの“続投”の意向を明らかにした。
田久保市長よ「正気なのか…?」
「会見には、市長の代理人弁護士も同席し、問題の卒業証書について“押収は拒絶する方向”との姿勢を明らかにしました。さらに、仮に強制捜査となった場合でも差し押さえは“許されない行為”とする法的見解を示し、防衛姿勢を強めています。市長はかつて市議会幹部に“卒業証書”を一瞬だけ提示したとされており、内容の確認が困難ないわゆる“チラ見せ”対応だったことから、証拠としての信頼性には疑念が残っています」(前出・全国紙社会部記者)
辞意の撤回とともに、疑惑の確認に対する具体的な説明が示されないまま続投を宣言したことに対し、ネット上では憤りの声が広がっている。
《正気なのか…?》
《自分の課題を一つずつ解決していく意思も能力もない。後は野となれ山となれの無責任人物》
《どれだけ市民を裏切り続ければ気が済むのか?応援の声の何倍も批判の声があるのに耳に入らないのか?》
《責任を取るべき立場の人が責任を取ろうとしない、根本的な部分で腐っていると思います》
《大学卒業も自分で言ったことも何一つやり遂げない》
真相は不透明のまま、市民の不安は続いている――。
【戦後80年】広島で爆心地から460メートルで被爆 孤児となり朝鮮戦争にも遭遇した男性が語る生涯
広島市に投下された原爆の爆心地から、半径500メートル以内で被爆した人で、現在も生存しているのは、ただ1人と言われています。原爆、そして朝鮮戦争にも巻き込まれた男性の壮絶な人生に迫りました。
■被爆者・友田典弘(つねひろ)さん
「(靴を)もう片っぽ脱ごうかっていうところに、ピカ―って光った。」
小学生に被爆体験を語る友田典弘さん(89)は、爆心地から460メートルで被爆しましたが、奇跡的に助かりました。
大阪で暮らす友田さんは、12年前に妻を亡くし、今は一人で生活しています。インコたちが、寂しさを和らげてくれます。
友田さんが歩んできたのは、戦争に翻弄された人生です。実家は、現在の広島市中区大手町で、母と弟の3人で暮らしていました。兄弟は、袋町国民学校に通っていました。8月6日の朝、下駄箱がある地下室に降りた直後でした。
■被爆者・友田典弘さん
「ピカ―っと光って。オレンジ色でピカッーと光って、それで飛ばされて、角で腰を打って。」
爆心地から、わずか460メートル。学校にいた160人の教師と、子どもが亡くなりました。
■被爆者・友田典弘さん
「全部みんな真っ黒けで、歯だけ(白かった)。誰が誰だか分からない。分からないけど弟は、俺を呼びにいこうと思って、ちょっと離れたところで亡くなっていた。足を見たら『トモダ』って書いてあったからね。『ごめん、ごめんね』と言って(立ち去った)。」
自宅は、跡形もありませんでした。母の行方も分かっていません。近くの川は、遺体で埋め尽くされていました。
■被爆者・友田典弘さん
「もう何百人、川がいっぱいやったんよ。遺体で。僕は1人で(川を)見ていたね。『なんだろ』と思って。お母さんはね、家が川に近いから、川で亡くなっていたと思うよ。」
孤児となった友田さんに、手を差しのべてくれたのが、知り合いの朝鮮人男性でした。帰国する男性とともに、朝鮮半島へ渡ります。しかし、男性との生活は長くは続きませんでした。男性の家族から厳しく当たられ、13歳で再び孤児となります。
厳しい寒さの中での路上生活で、足の指先は壊死しました。
■被爆者・友田典弘さん
「真っ黒になって腐ってとれた。凍っていてね。病院には全然行っていない。」
さらに、1950年には朝鮮戦争が勃発し、友田さんがいたソウルが戦場となりました。
■被爆者・友田典弘さん
「弾がピューンピューン飛んでいきよった。目の前をね。」
朝鮮戦争を生き延びた友田さんは、知人の協力もあり、1960年に15年ぶりの帰国がかないました。
帰国から10年後の友田さんは、大阪の鉄工所で働いていました。30歳の頃に結婚し、5人の子どもを授かりました。
■被爆者・友田典弘さん
「宝物やね。家族ね。まさか子どもができると思わなかったから。当時は。(それは原爆にあったから?)そうそう。」
原爆と朝鮮戦争を生き延びた、友田さんの壮絶な体験を伝え残そうとする男性がいます。小学校で非常勤講師を務める、吾郷修司(あごう・しゅうじ)さんです。
■小学校非常勤講師 吾郷修司さん
「友田さんが原爆を受けたところは、すぐ目の前だから、ピカ、ドーンですよ。ピカっと光ったら、すぐドーンときて。」
吾郷さんが友田さんの体験を知ったのは、9年前です。以来、何度も大阪に足を運び、話を聞きとりました。その内容は、本になりました。
■小学校非常勤講師 吾郷修司さん
「(友田さんの)根底のところには、戦争に対する憎しみというか、腹立たしさというか、そういう思いを持って生きていると、何回か話を伺う中で思った。戦争ということに対しては、子どもたちも関心があるし、どこかで怖いという思いがあると思うんですけど、戦争は絶対起きてはいけないというような思いを(子どもたちが)持ってくれたら嬉しいなと。」
6月、友田さんの姿は、故郷・広島にありました。高校の新聞部の依頼で、被爆前後の足取りをたどります。向かったのは、80年前に通っていた袋町小学校です。
当時の校舎の一部が、資料館として残されています。伝えるのは、熱線に焼かれた弟のことです。
■小学校非常勤講師 吾郷修司さん
「弟さんはどの辺りに倒れていた?」
■被爆者・友田典弘さん
「出たらちょうどここね。俺、呼びに行こうと思ったのちゃう?」
■小学校非常勤講師 吾郷修司さん
「多分だけど、弟さんは『お兄ちゃん』と言って、呼びに行こうとしていた。呼びに行こうと、下駄箱の方に向かって引き返すような感じで、来てたのではないかって。」
爆心地から半径500メートル以内にいたほぼすべての人は、一瞬で命を奪われました。広島大学の鎌田名誉教授の調査によると、今も生存するのは、友田さんただ1人ということです。キノコ雲の直下で起きたことを聞けるのは、友田さんしかいません。
■崇徳高校新聞部副部長 洲濵侑さん
「いずれ被爆者がいなくなる世界が訪れる中で、聞けるのはすごい貴重だと思うし、爆心地から近かったこそ語れる体験とか、その本人だから伝えられる言葉があると思うので、それを自分たちが受け取って汲み取って、記事にして伝えていきたいです。」
■被爆者・友田典弘さん
「僕ね、学校4年間しか行ってないから、高校生がうらやましい。(高校生たちには)戦争をしたらアカンしね。戦争に巻き込まれるからね。絶対したらアカンということ(が、伝わっていてほしい)。」
あの日を境に、激動の人生を歩むことになった友田さん。2つの戦争を生き延びた者にしか語ることのできない体験を、次の世代へつないでいきます。
関東 台風が離れた後は猛暑 内陸部では体温超えの暑さに
台風9号(クローサ)は関東から離れつつあり、西から晴れのエリアが拡大しています。天気回復とともに暑さも戻り、内陸部では体温を上回るような危険な暑さになる見込みです。
日差しに加え気温の上がりやすい西風に変化
台風9号(クローサ)は関東の東の海上を北東に進んでいます。台風に近い千葉県や茨城県などで雨が残っている一方、群馬県や東京・多摩など西側のエリアでは日差しが戻ってきました。
台風が離れるに連れて晴れのエリアが拡大し、午後には関東の大部分で夏空となる見込みです。また、昨日まで吹いていた北東の風から西寄りの風に変わり、フェーン現象が発生する地域があります。
日差しとフェーン現象で気温の上昇する所が多く、前橋市では昼前に35℃を突破し、午後は37℃まで上がる予想です。体温を上回るような危険な暑さの所もあるとみられます。東京都心も昨日に比べて5℃高い35℃と、猛暑日の予想となっています。
急激に気温が上昇しますので、しっかりと熱中症対策を行うようにしてください。
「シカも暑かったのかな」 オホーツク海を泳ぐ3頭のシカ目撃 地元漁師も驚きの光景 北海道・納沙布岬
北海道根室市の納沙布岬で2025年7月28日正午すぎ、オホーツク海を泳ぐシカ3頭の姿が目撃されました。
映像を撮影したのは地元のコンブ漁師で、海岸から40~50メートルほどの沖合を泳いでいるのに子どもが気づいたということです。
撮影した漁師の男性は、「15年以上ここに暮らしているが初めて見る光景で驚いた。海水を飲む様子はよく見るが、シカも暑かったのかな」と話していました。
関越道で大型トレーラーと車が事故 1人死亡2人搬送 関越道は4時間通行止め 新潟
新潟県魚沼市の関越道下り線で大型トレーラーと乗用車による事故がありました。3人が病院に搬送され、大型トレーラーの運転手の男性(56)が搬送先の病院で死亡が確認されました。
事故があったのは魚沼市大浦の関越道下り線のトンネル内です。 警察によりますと、2日午前3時40分ごろ、大型トレーラーと乗用車による事故がありました。
この事故で、大型トレーラーを運転していた新潟市西区の会社員の男性(56)が意識不明の重体で病院に搬送され、午前8時50分に死亡が確認されました。また、乗用車を運転していた東京都日野市の会社員の男性(25)と同乗の女性(20代)も病院に搬送されました。けがの詳細は分かっていませんが、搬送時に意識はあったということです。
事故の詳細は分かっておらず、警察が詳しく調べています。
また、事故の影響で関越道下り線は六日町ICから魚沼IC間で午前3時57分から通行止めとなり、午前7時45分に解除されました。
30代の姉妹2人がスーパーで総菜を盗んだ疑い「警備員が万引きした女性を確保」店長が110番 盗んだ総菜を買える所持金あり 北海道江別市
1日午後、北海道江別市のスーパーマーケットで、共謀して惣菜1点を盗んだとして、30代の姉妹が逮捕されました。
窃盗の疑いで逮捕されたのは、いずれも江別市に住むパート従業員の32歳と31歳の女2人です。
警察によりますと2人は姉妹で、1日午後2時ごろ、江別市内のスーパーマーケットで、惣菜1点(販売価格428円)を共謀して盗んだ疑いがもたれています。
犯行を目撃した警備員が2人に声を掛けて取り押さえ、店長が警察に「警備員が食料品を万引きした女性を確保している」と110番通報しました。
取り調べに対し、2人とも容疑を認めているということです。
当時の2人の所持金は明らかになっていませんが、盗んだ総菜を買える金額はあったということです。
警察は、詳しい手口など当時の状況を調べるとともに、余罪があるとみて動機などを調べています。
石破首相が意欲「終戦80周年談話」は逆効果の可能性…ICU教授が「世界から政治的お芝居と見下される」と語る訳
第二次世界大戦終結から80周年を迎える今年、恒例のように首相談話への注目が集まっている。石破茂首相は今年3月、「戦後70年や60年の節目にわれわれは平和への思いを込めていろいろな形でメッセージを発してきた。過去の検証とともに未来への思いを込めて考えていきたい」と述べ、メッセージを出したいという考えを示している。
しかし、これまでの「談話」を振り返ると、果たして真の和解や地域安定に寄与してきたのか疑問が残る。むしろ、定期的に繰り返される謝罪声明は、本来の目的を離れて政治的なパフォーマンスの側面が強くなっている、というのが国際的な評価だ。
戦後日本が世界平和と国際協力に果たしてきた実質的な貢献を正当に評価し、未来志向の外交政策を構築するためには、従来の「談話外交」のあり方を根本的に見直す必要がある。
2015年の安倍談話は、戦争責任について重要な視点を提示した。日本の侵略と植民地支配の事実を認めつつ、戦後世代が過去の重荷を背負い続けることの是非を問うたのである。この視点は、歴史を否定するものではなく、「謝罪」が外交上の道具として使われる現実に対する問題提起だったと理解できる。
確かに、日本は朝鮮半島を併合し、「慰安婦」問題も存在した。満州国を樹立し、中国本土に侵攻して多くの犠牲者を出した。これらの歴史的事実を決して否定することはできない。同時に、これらの行動が帝国主義が当然視されていた時代背景の中で起きたことも歴史的文脈として重要である。
1993年の河野談話と1995年の村山談話は、戦後50年の節目において日本の公式見解を示した重要な声明だった。これらの談話が果たした役割は決して小さくない。
しかし問題は、その後も定期的に同様の謝罪声明が求められ、それに応じることが外交的な「儀式」と化してしまったことだ。本来、心からの反省と謝罪は一度きりの真摯なものであるべきで、繰り返されることで逆にその真正性が疑われる結果を招いている。
日本の戦時の過去に対する真の「声明」は、言葉よりもむしろ80年間の実際の行動にこそ表れている。1945年以来、日本は一度も他国に対して武力行使を行っていない。この事実は、世界の主要国の中でも極めて稀有な平和実績である。
具体的には、国連平和維持活動への財政的貢献は世界第2位であり、政府開発援助として45兆円を超える資金を提供してきた。自衛隊は人道支援と災害救援にのみ従事し、国際法と民主的価値の擁護に一貫して取り組んでいる。
ドイツは戦時中の行為について、毎年フランスで元敵国とともに平和への誓いを新たにし、ホロコーストの責任を教育プログラムで継承している。この取り組みは確かに評価されるべきだが、日本とドイツでは置かれた地政学的環境が根本的に異なる。
ドイツの和解相手は民主主義国家であり、対等な立場で未来志向の関係を築くことができる。一方、日本が直面する課題はより複雑だ。特に中国のような権威主義体制では、謝罪が政治的な道具として利用される構造的な問題がある。
中国に対する日本の「謝罪外交」は、単なる過去の清算ではなく、残念ながら、中国共産党の政治体制を支える武器として機能しているのが実情だ。この問題を理解することが、日本の対中外交戦略を考える上で不可欠だと思われる。
中国共産党は建国以来、抗日戦争の歴史を意図的に書き換えてきた。史実では、日中戦争の主要な戦闘は国民党軍が担い、共産党軍の活動は限定的だった。しかし現在の公式歴史では、共産党が「抗日戦争の英雄」として位置づけられている。この歴史改変は偶然ではなく、党の政治的正統性を確保するための戦略である。
実際に2013年の中国共産党「9号文件」と呼ばれる内部報告書によると、以下の3つの領域を「歴史虚無主義」として規定し、事実上の言論統制を正当化している。歴史虚無主義とは、中国共産党が使用する政治的用語で、「党にとって都合の悪い歴史的事実や解釈を否定・批判すること」を指す。客観的な歴史研究や批判的検証を「虚無主義」として弾圧する思想統制を支えるコンセプトである。
1.党史への批判的検証――大躍進政策による3000万~4500万人の餓死、文化大革命による社会破壊、天安門事件の真相究明
2.抗日戦争史の客観的分析――国民党軍の実際の戦績、共産党軍の限定的役割、当時の勢力関係の実態
3.現代政策への歴史的批判――ウイグル・チベット政策への批判、香港「一国二制度」の変質への指摘
興味深いことに、中国の教科書は19世紀のアヘン戦争に20世紀の文化大革命よりも多くのページを割いている。上海歴史博物館では1949年から1978年の展示が意図的に省略され、共産党統治の初期30年間の「不都合な真実」が消去されている。
このような体制下では、日本の謝罪は本来の和解目的とは正反対の機能を果たしてしまう。日本の指導者が謝罪するたびに、それは即座に党のプロパガンダに組み込まれ、「永続的な日本の脅威」という公式ナラティブの「証拠」として利用される。謝罪は和解への一歩ではなく、軍事拡張と国内統制を正当化する道具に転用されるのだ。
そうは言っても、中国の歴史問題政治利用を批判する一方で、日本国内にも解決すべき課題があることを認識する必要がある。一部の政治家や論者による歴史事実の矮小化や否定的発言は、国際的な信頼を損ね、中国側に「日本の歴史修正主義」という批判の口実を与えてしまっている。
日本政府は、歴史事実を率直に認めた上で、それとは別次元で80年間の平和実績の評価を国際社会に堂々とアピールすべきだ。歴史問題で「負い目」を感じる必要はないが、同時に事実を否定したり矮小化したりすることも絶対に避けるべきである。
中国側の歴史利用を批判する際も、「自分たちは客観的事実に基づいて議論している」という立ち位置を維持することが重要だ。そのためには、日本国内での歴史教育の充実と、政治家の歴史認識発言への慎重さが不可欠である。
韓国との関係は、中国とは根本的に異なる可能性を秘めている。民主主義体制下では真の草の根交流が可能であり、特に世代交代が進む中で新たな関係構築のチャンスが広がっている。
実際に40歳未満の韓国人の対日認識は、従来世代と大きく異なる傾向を示している。K-POPや日本のアニメ・ゲーム文化の相互交流を通じて、歴史問題よりも現代的価値を重視する若者が増加している。この変化を政策的に後押しするため、以下の具体的プログラムを提案したい。
・ 予算規模:年間150億円(1億ドル)
・ 対象:40歳未満の専門家・研究者・起業家
・ 重点分野:AI・ロボティクス、再生可能エネルギー、バイオテクノロジー、創造産業
・ 成果指標:年間1000人の交流、共同研究プロジェクト50件、合弁企業設立20社
歴史対話よりも効果的なのは、共通の現代的課題での協力である。以下の分野で二国間作業部会を設置する。
・ 半導体・電池・レアアースなどの戦略物資での協力
・ 第三国依存リスクの共同評価と代替策の開発
・ 緊急時の相互供給メカニズムの構築
・ 少子高齢化対策のベストプラクティス共有
・ 介護ロボット・遠隔医療技術の共同開発
・ 外国人労働者受け入れ制度の相互参照
・ 人道支援の連携強化
・ 統一後のインフラ整備構想の共同策定
・ 脱北者支援プログラムの協力
ただし、上記の提案の実現には、いくつか政治的課題をクリアする必要がある。
まず、日韓未来リーダー基金150億円は、防衛費増額が議論される中では決して非現実的な規模ではない。むしろ「防衛」よりも「協力」への投資として、国民の理解を得やすい可能性がある。既存のODA予算の一部振替や、経済産業省の産業振興予算との連携により調達可能だろう。
そして、韓国との経済・技術協力は、保守・リベラルを問わず支持を得やすいテーマだ。特に地方経済への波及効果を強調することで、地方選出議員の支持を獲得できる。野党に対しては、平和的手段による地域安定への貢献という側面を強調する。
さらに、外務省、経済産業省、文部科学省にまたがる政策のため、内閣官房主導での省庁間調整が必要だ。既存の「戦略的互恵関係」の枠組みを活用し、段階的に拡充していく手法が現実的だろう。
一方で韓国国内にも歴史問題を重視する勢力が存在する。この現実を踏まえ、いくつか配慮すべきもあると考えられる。
第一に、韓国の保守層は安全保障での日韓協力を重視する傾向がある。北朝鮮問題や中国の台頭といった共通の脅威認識を基盤として、実務協力の必要性を説明していく。
第二に、歴史問題を重視する進歩層に対しては、協力によって得られる経済的利益や技術革新が、結果的に韓国社会全体の発展に寄与することを説明する。特に気候変動対策や人口減少対策での協力は、進歩的価値観とも親和性が高い。
第三に、政府間だけでなく、両国の市民社会、学術界、経済界を巻き込んだ重層的な関係構築により、政治的変動に左右されにくい基盤を築く。
こういった実務協力を通じて、歴史問題を相対化し、未来志向の関係を構築するのはどうだろうか。重要なのは、歴史認識の違いを完全に解決することではなく、歴史を乗り越える共通利益と価値観を創出することだ。韓国の民主主義体制と自由な市民社会は、中国とは不可能だと考えられる本物の「和解」を受け入れることができるだろう。
ただし、このような外交政策の転換を実現するためには、日本国内での合意形成が不可欠だ。従来の「談話外交」からの脱却には、予想される反対論に対する周到な準備が必要である。
日本人の一部は、談話外交をやめることに対して「歴史修正主義」と批判するだろう。だが、歴史的事実と政策を明確に区別して説明しなければいけない。日本の戦時行為を否定するのではなく、80年間の平和実績を正当に評価し、それを基盤とした未来志向の外交を強調する。
「近隣諸国との関係悪化への懸念」については、韓国との関係改善に向けた具体的成果を段階的に積み重ねることで、建設的外交の有効性を実証していく戦略が重要だ(下記、筆者の私案参照)。
・ 80周年声明で基本方針を表明
・ 日韓未来リーダー基金の設立準備
・ 国内シンクタンクでの政策研究推進
・ 韓国との実務協力を小規模から開始
・ 成果の可視化と国内外への発信
・ 政策効果の検証と改善
・ 成功事例を基にした政策の全面実施
・ 他の民主主義国への適用拡大
・ 新たな地域協力枠組みの構築
戦後80周年にあたって日本が示すべきは、過去に囚われない前向きなビジョンである。これは歴史を無視することではなく、歴史の教訓を活かして未来志向の国際貢献を継続していくという意思表明だ。
必要なのは、儀式的な謝罪ではなく、地域と世界の安定への具体的な貢献策である。平和的発展と国際協力における日本の実績を基盤として、新たな国際的役割を積極的に担っていく姿勢を明確にすべきだろう。
過去の過ちを認めつつ、それによって永続的に制約されることを拒否するのは、むしろ日本の政治的成熟を世界に示すだろう。実際に日本の戦後実績は言葉以上に多くを語っているのだから、日本の政治はもっと自己評価を高く保つべきだ。
重要なのは、この実績を踏まえて、共有された繁栄と平和に基づく未来を構築することだ。歴史は国家を言葉ではなく、継続的で一貫した行動によって判断する。その基準で見れば、日本は十分にその責任を果たしてきたと言えるのではないだろうか。
戦後80年の節目は、従来の「談話外交」から「行動外交」への転換を図る好機だ。日本が世界に示すべきは、過去への悔恨ではなく、未来への建設的なビジョンなのである。
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(国際基督教大学 政治学・国際関係学教授 スティーブン・R・ナギ)
立憲民主党、参院選検証で執行部に不満相次ぐ…「党に魅力なくなった」「けじめつけるべきだ」
立憲民主党は1日、両院議員懇談会を国会内で開き、参院選の検証を行った。政権批判票の受け皿となれず、改選22議席の維持にとどまったことで、出席者からは執行部への不満が相次いだ。
非公開で行われた会合では「党に魅力がなくなってきている」「大敗だったと認めるべきだ」といった注文が出た。「けじめをつけるべきだ」と野田代表ら党執行部の刷新を求める声も一部から出たという。
立民は先の参院選で、与党が惨敗したにもかかわらず議席を積み増すことができず、比例選の得票も前回2022年参院選から大きく伸びず約740万票にとどまった。
野田氏は同日、懇談会に先立つ両院議員総会で選挙結果について「痛恨の極みだった。厳しく総括し、次に備えたい」と述べた。立民執行部は参院選の総括を月内に取りまとめる方針だ。