「性的ディープフェイク」の上半期警察対応123件、前年同期から倍増…中学生被害が最多79件で64%

警察庁は3日、生成AI(人工知能)などを悪用した子供の性的偽画像「性的ディープフェイク」を巡る全国警察の対応件数は今年上半期(1~6月)で計123件に上り、前年同期(60件)から倍増したと発表した。中高生の被害が中心で、昨年1年間(114件)を既に上回っており、同庁が注意喚起している。
発表によると、警察が通報・相談を受けるなどして対応した123件中、生成AIやスマートフォン向けの画像加工アプリなどの悪用が確認されたのは38件に上った。
被害者別では、中学生が最多の79件(64%)で、高校生が38件(31%)と続いた。小学生の被害も確認されている。
加害者との関係別では、同級生や同じ学校が83件と最多で、友人間で撮影した画像などが悪用されていた。SNSなどで知り合った相手は7件に上った。被害者の高校生が性的偽画像を拡散すると脅され、電子マネーを要求される事案も起きていた。
このほか、面識のない人物に盗撮され、性的画像に加工されたケースも4件確認された。
警察は性的偽画像を作ることの違法性を周知する取り組みを強化している。悪質事案は名誉毀損(きそん)やわいせつ物頒布などの容疑で捜査し、加害者への指導・警告を繰り返している。

「約77万人の方々への給水を行った」5100人態勢で活動継続…病院給水や入浴支援拡充、小泉防衛大臣が説明

3日の記者会見で、小泉進次郎防衛大臣は、熊本県で続く断水被害への災害派遣の活動状況を説明した。
【映像】小泉大臣「先手先手で対策を」支援状況を報告
まず、小泉大臣は自衛隊は現在、5100人態勢で活動を継続していることを報告した。そして給水支援について、熊本県は連日厳しい暑さが続いていることを踏まえ「昨日は給水部隊が、熊本県内計58カ所において412トンを給水しました。昨日までの給水総量は約1539トンであり、延べ約77万人の方々への給水を行ったことになりますが、これは熊本県の人口の約3分の1以上に匹敵する水量です」と説明した。
また3日は県内50カ所で給水車87両、隊員約230人による給水支援を実施しているとした。
小泉大臣は人工透析に必要な水が不足した病院への対応にも触れ、「昨日は宇城市で3カ所、宇土市で1カ所、八代市で3カ所、菊池市で1カ所の計8カ所の病院に計223トンの給水を行いました」と報告。
小泉大臣、入浴支援と断水への支援についても報告
入浴支援については「陸上自衛隊・海上自衛隊により、熊本市、宇城市、八代市、氷川町の4カ所で入浴支援を実施しております」とした上で、「昨日から新たに氷川町の氷川中学校で、航空自衛隊による水再生循環システムシャワーを使った入浴支援を開始しました。本日は陸上自衛隊が、1000人規模で被災者のいらっしゃる宇城市の小川防災拠点センターと宇土市の宇土市役所において、入浴支援の開始に向け調整しております。これで、熊本県内5市町において、入浴支援を実施することになります」と説明した。
また断水への支援については、八代港では大型輸送艦「くにさき」による支援を実施しており、「船内にも浴槽を設置し、入浴支援を継続するほか、洗濯支援、充電支援、健康相談、キッズスペースの設置など大型輸送艦の特性を生かした大規模な支援を実施しております」と紹介した。そして3日から入浴支援の終了時刻を午後9時から午後10時へ延長することも報告。
さらに、防衛省は経済産業省と連携し、水循環型シャワーセット80セットを航空自衛隊の輸送機で熊本県へ搬送したことや、より大規模な入浴・宿泊・食事支援を行うため、PFI船舶「はくおうII」が近日中に八代港へ到着予定であると明らかにした。
最後に「引き続き、被災された皆様が『困っている』という声を一つひとつ受け止め、給水支援をはじめとした生活支援について、必要な支援を必要な場所へ必要なタイミングでお届けできるよう、先手先手で対策を講じつつ、被災者の皆様に寄り添った活動を実施してまいります」と述べた。(ABEMA NEWS)

「国でできることは全部やるつもりで参りました」高市首相が酷暑の被災地を視察 地震発生から6日

(中谷しのぶキャスター)
先ほど高市首相は熊本県内の避難所に到着しました。
(高岡達之 特別解説委員)
今、現地で撮影された映像が流れています。これは氷川町という大きな家屋の倒壊が相次いだ町の中学校です。高市首相がここを訪れた理由は、この中学校で、航空自衛隊が、大きなお風呂を設置しているからです。
しかも、ここは女性の方によく利用していただきたいというお風呂で、女性自衛官が集中的に配置されている場所です。そこで首相が視察をしました。
(高市首相)
「心からお見舞い申し上げます。お困りごととか、不安に思ってらっしゃることをお聞かせください。もう国でできることは全部やるつもりで参りました」
(被災者)
「ダンボールベッドは来るし、支援物資は来るし。こんな快適な生活はないと思いまして、本当に涙が出るほどありがたかったです。消防団の人たちも早かったですね。もうドタドタと家の中に入って『命があったら、もうすぐ出て行ってください!』って。とにかく地域の消防団の人の動きが早かったです」

熊本地震、激甚指定へ=予備費200億円、4日決定―高市首相、初の視察

高市早苗首相は3日、最大震度7の地震で大きな被害を受けた熊本県を視察した。この後、熊本市で記者団に、激甚災害に指定し地域を限定しない「本激」とする方針を表明。特定非常災害特別措置法に基づく「特定非常災害」にも指定し、4日の閣議で予備費200億円超の支出を決定する考えも示した。
首相は「プッシュ型の物資支援、災害復旧をより迅速かつ一層強化する」と強調。「一日でも早く安心して元の生活を取り戻せるようやれることは全てやる」と語った。「被災自治体は財政面でちゅうちょすることなく全力で応急、復旧対応に当たってほしい」とも述べた。
7月28日の地震発生後、首相が被災地を訪れるのは初めて。激甚災害の場合、インフラや農業関連施設の復旧に対する国の財政支援が手厚くなる。特定非常災害に指定されれば、運転免許証の有効期限延長など行政上の特例が適用される。
首相は現地に到着後、陸上自衛隊のヘリコプターに搭乗し、爆発事故が起きたイオンモール熊本(嘉島町)や、煙突が倒壊した日本製紙八代工場(八代市)を上空から視察した。
熊本市では3日の最高気温が40度を超えた。熱中症対策が不可欠となる中、首相は被害が大きかった氷川町の避難所を訪れ、住民らと意見交換した。また、木村敬知事とも熊本県庁で面会。木村氏は、避難所の生活環境向上や激甚災害、特定非常災害への早期指定を要望した。
地震発生から約1週間が経過し、政府は「救出・救助に一定のめどがついた」と判断。今後は災害関連死の防止や生活インフラの復旧などに重点を置く方針だ。 [時事通信社]

「黒煙が上がっている」北政所ゆかりの高台寺付近で火災 茶室など約60平方m焼ける

3日午後6時35分ごろ、京都市東山区下河原町の高台寺付近で「黒煙が上がっている」との119番が相次いだ。
消防によると、消防車など約20台が出動し約40分後にほぼ消し止めた。木造1階建て茶室など約60平方メートルが燃えた。午後7時50分時点でけが人は確認されていない。
同寺のホームページによると、高台寺は豊臣秀吉を弔うため正室・北政所(きたのまんどころ)が慶長11(1606)年に創建した。
近くのホテルに勤務する40代の男性は「消防車がたくさん来てて、外に出たら焦げ臭い臭いがした。近くの住民と話をして、火事だと知った。この近くでの火事は覚えがなくびっくりした」と話していた。
現場は京阪祇園四条駅から南東に約800メートルの住宅街。

沖合に流された男子高校生が死亡、救命胴衣を着用せず…新潟・村上の大川河口付近

3日午後2時20分頃、新潟県村上市の大川河口付近で、男子高校生が溺れていると、友人から119番があった。男子高校生は心肺停止の状態で見つかり、ドクターヘリで新潟市内の病院へ搬送されたが、死亡が確認された。
新潟海上保安部の発表によると、死亡したのは村上市の10歳代の男子高校生。高校生7人で遊んでいたところ、沖合に流された。7人は全員、救命胴衣を着用していなかったという。

熊本地震で高齢者施設873施設被害、断水4万5000戸以上…廊下で雑魚寝・入浴できず

熊本県で最大震度7を観測した地震で、県災害対策本部は3日、高齢者施設の被害が873施設に上ったと発表した。厳しい暑さが続く中、介護が必要な高齢者は過酷な生活環境に置かれている。住宅被害は集計開始から初めて1万棟を超えた。地震発生から4日で1週間となる。断水は4万5000戸以上で続き、災害関連死を防ぐ取り組みが急務となっている。
県によると、873施設(3日午後2時時点)の自治体別の内訳は、熊本市が最多の268施設。次いで八代市の197施設、宇城市79施設となっている。壁のひび割れや床の亀裂といった建物被害のほか、断水や停電といったライフラインへの被害も確認された。
入所者が廊下で雑魚寝を強いられたり、入浴がかなわなかったりするケースもあり、衛生面が懸念されている。県は「停電などは当初に比べ解消されている。今後、給水やスポットクーラーの配置など必要な支援を進めていく」としている。
3日午後6時時点の住宅被害は1万2276棟に上った。全壊は700棟、大規模半壊は20棟、半壊は1025棟。
住宅の再建や支援は緒に就いたばかりだ。県は3日、宇城市、氷川町で計70戸の応急仮設住宅の建設に着手したほか、被災者を対象にホテルへの避難の受け付けを開始。八代、水俣・芦北地方などを中心に県内94施設を確保している。
一方、県は、関係団体を通じて把握した地震に伴う宿泊施設のキャンセルが、7月31日までの暫定値で約6万5500人分、キャンセル額は約9億円に上ることを明らかにした。

支持率急落の高市政権がV字回復画策 内閣改造でクビ切り不可避な“ポンコツ”5大臣の名前

特別国会が先週閉会し、永田町では早速、内閣改造の人事話がささやかれている。高市政権は、消費税減税の議論がもつれているほか、強引な国会運営で支持率が急落。V字回復を図る一手として、内閣改造にかける期待感は大きい。
永田町では「若手の登用で刷新感を打ち出すつもりだ」「女性を大量入閣させるに違いない」などとささやかれている。ただ、一方で「ポンコツの現職は容赦なく切られる」ともっぱら。目下、5大臣のクビが危ういとみられている。
■首相側近、不倫スキャンダル、おこめ券大臣…
“クビ濃厚”の筆頭は、黄川田仁志こども担当相だ。
「黄川田さんは国会や会見での不安定な受け答えが目立ち、大臣としての能力そのものが疑問視されています。3月16日の国会答弁では、高市首相が法制化を目指す『旧姓の通称使用拡大』についての立憲民主党・蓮舫参院議員の質問に対し、グダグダ答弁を披露。わずか18分間で、3回も審議がストップするダメダメっぷりを発揮しました」(政界関係者)
黄川田氏は高市首相の側近でもあり、昨年の総裁選出馬会見では司会を務めた。しかしそこでも、質疑で記者を指名する際に「顔が濃い方」「逆に顔が白い、濃くない方」と外見の特徴を挙げて指名し、炎上。永田町では「空気が読めない人」ともっぱらで、続投は絶望的だ。
松本洋平文科相は、不倫相手の女性と国会事務所内での性行為疑惑が週刊誌で報じられた。そもそも「あのスキャンダルでクビが飛ばなかったのが奇跡」(大手紙政治部記者)で、今回はさすがに生き残れないだろう。
鈴木憲和農相も危ない。昨年には米価高騰対策として、「おこめ券」配布を打ち出した。しかし、「出来の悪いバラマキ政策だ」と激しい批判にさらされ、ミソを付けた。
さらに鈴木大臣は、昨年に放出された政府備蓄米の買い戻しをめぐって、官邸と対立している。
「鈴木さんは米価の暴落を防ぐため、備蓄米の早期買い戻しを官邸に申し入れました。一方、官邸幹部は『物価高対策に逆行してしまう』と難色を示し、強く反対したようです。両者の間に溝が生じています」(農水省担当記者)
■記者の質問にろくに答えず度々炎上
平口洋法相も、すこぶる評判が悪い。先の特別国会では、再審法改正をめぐり、自民党内で議論が紛糾。検察との対立も激化した。しかし、平口大臣は仲裁に入ることもせず、自民党内からは「法相として何もしてくれなかった」と、恨み節が聞かれる。存在感も薄く、退任は不可避とみられている。
小野田紀美経済安保相は参院議員2期目と経験が浅く、「入閣は早かった」との声が少なくない。会見では自身のメディア嫌いを隠すことなく、「記者の質問にすぐ『所管外です』などと突き放し、ろくに答えず度々炎上。内閣のイメージを低下させている」(官邸事情通)。
こうしてみると、高市内閣はトンデモ大臣のオンパレード。人を見る目がない高市首相が人事をいじって、支持率が上がるとは思えない。
◇ ◇ ◇
高市内閣の不祥事、スキャンダルについては、関連記事【もっと読む】【さらに読む】などでも詳しく報じている。

「保守派」の高市首相は絶対に口にしない…「先の大戦の戦没軍人230万人」を祀る靖国神社の不都合な真実

※本稿は、山崎雅弘『戦争を甘く見る空気』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
先の戦争で命を落とした日本軍人の中でも、とりわけ悲壮な物語として語られるのが、いわゆる「特攻(諸外国では「カミカゼ」)」で死んだ兵士の最期です。
戦争末期、通常の戦い方では戦局を挽回できないとの認識が日本軍の内部で広まると、上層部は破れかぶれのような形で、爆弾を搭載した飛行機や船で敵の軍艦に体当たりさせるという、常軌を逸した戦法を組織として命令するようになりました。
当時の日本軍は、この戦法を「特別攻撃(特攻)」と呼び、海軍は「神風(しんぷう)特攻隊」という名称で、体当たり攻撃の航空隊を継続的に出撃させました。この戦法が、新聞で大きく報じられて国内で反響を呼ぶと、陸軍航空隊も同様の「特攻隊」を組織して繰り返し発進させ、日本の近海に展開する敵艦へと向かわせました。
鹿児島県には、戦争中に多くの日本軍の航空基地が置かれており、知覧(ちらん)と万世(ばんせい)には、特攻隊員を偲ぶ平和祈念館があります。また、海上自衛隊の鹿屋(かのや)航空基地内にある「鹿屋航空基地史料館」でも、特攻作戦と特攻隊に関する展示物が公開されています。
各館内には、亡くなった特攻隊員の遺影や遺書が数多く展示されていて、見学者の中には、遺書の内容を読んで涙を流す人も少なくありません。
特攻隊員の書き残した遺書には、「笑って突込んで行く覚悟です」「私が死んでも、どうか悲しまずに大君(天皇)の為に よくぞ死んだ天晴(あっぱ)れな最後だったとほめてやってください」「お父上様、母上様この栄の心境を察し下さい 栄は飛んで喜んで行きました」など、自らの死を覚悟した若い兵士の「純真な」心情が綴られているからです。
けれども、後世に生きる我々がこうした「遺書」を読む時、気をつけなくてはいけないことがあります。それは、「どういう境遇でこれが書かれたのか」という点です。
当時の日本社会には、軍人が戦争で死ぬことを「避けるべきこと」や「悲しいこと」と見なすことを許さない「空気」が充満していました。それどころか、靖国神社宮司の言葉にあるような「戦死した人を褒めてあげなさい」という態度が、表向きは国民に求められていました。
特攻で出撃する兵士の遺書も、遺された家族が周囲のいじめなどで理不尽な目に遭わないようにするためには、当時の日本社会を支配した「空気」に合う内容の言葉を書くしかありませんでした。「僕は本当は死にたくない」とか「特攻を命令した上官が憎い」と、本心では思っていたとしても、それを遺書に書くことは事実上不可能でした。
もしそんな言葉を書いたなら、軍の検閲に引っかかって廃棄されたり、受け取った遺族が「卑怯者の家族」や「非国民の家族」と罵られる可能性が高かったからです。逆に、当時の日本社会の世界観や死生観に合致した遺書を書いておけば、残された家族は「英霊の家」として称えられ、地域社会で良い待遇を得られることもありました。
もちろん、個々の特攻隊員がどんな心情で遺書をしたためたのか、実際のところはご本人にしかわかりません。当時の価値観に適応し、遺書に書き記したような気持ちを胸に抱いて出撃した隊員も、少なからず存在したのだろうとは思います。
しかし、現代に生きる我々が、こうした遺書を「悲しい美談」と理解して感情的に「消費」することには、やはり問題があるように思います。彼らをそんな境遇へと追いやった上官や軍隊組織、そして社会の「空気」に対する批判的な視点が消失するからです。
特攻とは、実際の状況をストレートに表現すれば、「体当たり自殺攻撃」になります。
このような表現では、亡くなった人が不憫だということで、婉曲な表現である「特攻」という言葉が使われてきましたが、我々がまず考えないといけないのは、こんな戦い方はきわめて非人道的で、第二次大戦中に組織として繰り返し兵士に行わせた国は、日本以外にはなかったという現実です。
兵士が死ぬことを前提とした戦法は、人を人として扱わない、冷酷な行いです。
過去の戦争では、甚大な損害が出ることを想定した上でなされる「敵陣への突撃」が、しばしば行われてきました。けれども、それらは基本的に「生き残った兵が敵陣を占領する」ことが目標であり、突撃した全員を死なせる「死の強制」ではありませんでした。
そしてもう一つ、現代の我々が留意すべき重要な点は、もし靖国神社が存在しなかったなら、特攻という「体当たり自殺攻撃」も存在しなかったであろうということです。
靖国神社は、「戦死した軍人の肉体が滅びても、魂は九段の靖国神社へと向かい、そこで戦友と再会できる」という宗教的な物語を、日本軍人に信じさせていました。この物語に疑いを差し挟むことは、当時の日本社会では許されず、また軍人自身も「死の恐怖」から逃れるために、この物語を自発的に受け入れていたようにも見えます。
部下に「体当たり自殺攻撃」を命じた上官や司令官が、それによってその部下を死なせても罪悪感を感じず、罪の意識を軽減できたのも、「肉体は滅んでも魂は靖国に向かう」という物語が存在したからでした。軍人の死を「嘆きや悲しみの対象」ではなく「至高の栄誉」と顕彰する靖国神社がなければ、特攻という戦法は成立し得ませんでした。
軍人が戦場で死ぬことを「避けるべきこと」や「悲しいこと」と見なさず、むしろ「喜ぶべきこと」と捉える、多くの兵士を余計に死なせた遠因ともなった異様な「空気」は、1937年7月に日中戦争が始まった直後から、日本社会に広がっていました。
8月2日付大阪朝日新聞朝刊には、戦死した日本軍人を遺族が讃える記事が掲載されましたが、紙面に並んでいたのは、次のような言葉でした。
「“戦死は男子の本懐”健気に語る老ゆる母」

「“よく死んだ”戦死を褒める両親」

「よく死んでくれました、家門の名誉これに過ぎるものはありません」
8月5日付の同紙朝刊13面でも、「戦死の報にも毅然 天晴れ! 殉国の覚悟」という見出しで、次のような遺族の談話が、紙面の約3分の2を埋めていました。
「よくやってくれました。私は明治三十八年兵でちょうど日露戦役の済んだあとで、惜しくも従軍出来なかったですが、こんど息子が天晴れ戦死をとげてくれまして、一家の名誉これにすぎるものはありません」
「よくやってくれました。手紙がくるたびに、どうか潔くお国のために働いてくれればよいがと念じていましたが、これで私たちも大いに肩身が広いというものです」
「お役に立ってくれて、一門の名誉だと喜んでいます。白木の箱に入って凱旋せよと激励してやりましたが、それを実現してくれた」
「四日朝、戦死の電報を受け取りました。主人を早く亡くして娘二人はありますが、専造(戦死した一等兵)は私にとってただ一人の息子ですが、立派にお国に御奉公したのですから満足しています」
「お国のため立派に死んでくれたことを嬉しいと思います。二十八日、元気で活動しているから安心して下さいとの便りが来ましたが、これが最後の手紙となりました。千人針を送っておきましたが、着かなかったかもしれません」
最後のコメントにある「千人針」とは、千人の女性に一針ずつ赤い糸で白い布に結び目を縫ってもらい、それを敵弾除けと武運長久のお守りとして戦場の兵士に送る、民間信仰の一種です。そこには、相手の無事を祈る、切実な気持ちが込められていました。
息子を戦地に送り出した母親の多くは、おそらく本心では息子の生還を願っていたはずです。しかし、軍人の戦死を「悲しんではいけない」、「むしろ名誉なことだと喜ばなくてはいけない」という当時の日本社会の「空気」は、そうした本心を母親や妻、子どもが口にすることを許しませんでした。
新聞もまた、こうした「戦死を美談として物語化する記事」を書くことによって、人命を軽んじる「空気」の強化に加担していました。
戦地に赴いた軍人の「死」は、当人がある程度は覚悟していた最期だとしても、本来なら「可能な限り避けるべき結果」であるはずです。
ところが、先の戦争における日本では、こうした常識が壊れていました。
立派な大義に酔って「戦争を甘く見る空気」に浸り、出征した日本軍人の死を「喜んでいます」などと肯定する風潮が社会に広まると、やがて「軍人が戦地で死ぬこと」自体が目的化するという、本末転倒の考え方が社会に広まっていくことになります。
なぜ、そのようなグロテスクとも言える人命軽視の「空気」が日本社会に広がり、多くの人が抗(あらが)わずにそれに同調したのか。
1935年以降に先鋭化した「国体」思想の副産物として、日本人の思考形態が、論理性や合理性ではなく、主観や願望を投影した情緒的な物語(ナラティブ)に大きく偏向していったという面が大きいように思います。
現実をありのままに直視するのでなく、こうであって欲しい、こうであるはずだ、などの願望でまず結論を定め、そこから逆算する形で、人の心を揺り動かすような物語を構築していく。そうした手法が、新聞や雑誌で多く使われ、人々の心にも浸透しました。
国民の側でも、日々の苦しい現実から目を逸(そら)したいとの思いから、麻薬のような効果を持つ情緒的な物語に救いを求め、やがてそれを手放せない状態になっていきました。
軍の上層部から見捨てられて南方のジャングルで孤立した日本兵が、食糧も飲み水もなく空腹でやせ細り、衰弱し、誰にも看取られぬまま、植物が枯れるように餓死した。
こんな風に、事実を淡々と書いても、情緒的に人の心を捉える物語にはなりません。
若くて誠実な日本兵が、満足な食糧もないまま敵の追撃を逃れ、故郷に残した恋人から贈られたお守りを握り締める。周囲を敵に囲まれた南国のジャングルで彼女の幸せを祈りながら、敵の降伏勧告を敢然と拒否し、最期の突撃に向かう覚悟を固める。
そして、弾を撃ち尽くした銃を捨てて、肉弾戦でしか効果を発揮しない銃剣を血まみれの手で握り締め、もう二度と顔を見ることもできない最愛の恋人の名を叫びながら敵の陣地に突撃し、機銃弾を全身に浴びて鉄条網に倒れ込み、名誉の戦死を遂げた。
このような文章で情緒的な物語に仕立てれば、読む人の心にさまざまな感情の高まりを呼び起こし、兵士の死が「美しい最期」であったかのような印象すら受けるでしょう。実際、この種の物語に特攻隊員の若者を当てはめた小説や映画がいくつも世に出され、大衆的な人気を博しています。
これが、戦争を情緒的な物語に当てはめて語ることの恐さです。
高市早苗が2012年8月15日、公式ブログに掲載した靖国神社参拝時のコメントは、情緒的な物語を事実であるかのように語った内容です。そこで使われる「散華(さんげ)された」という言葉は、軍人が戦場で命を落とすという凄惨な状況を、情緒的な美談として物語化する時の常套句(じょうとうく)です。
「今年は、例年通り、午前中に靖国神社に参拝し、その後、日本武道館で挙行された全国戦没者追悼式典に参列致しました。

靖国神社では、国策に殉じ尊い生命を捧げられたご英霊に、尊崇の念をもって感謝の誠を捧げてまいりました。

いつも本殿前まで歩を進めますと、胸が締め付けられるように苦しくなり、涙が滲んできます。

祖国の存続を願い、愛するご家族や故郷への深い思いを残して散華された方々。悲しみを堪えて歯を食いしばって戦後の混乱期を生き抜いてこられた多くのご遺族たち。

『そのご労苦に応えなければ』『美しく強く繁栄を続ける国家を築いていかなければ…』

という使命感と焦燥感に、押しつぶされてしまいそうになるのです」
靖国神社を参拝して「英霊に感謝」という言葉を口にする「保守派」の政治家たちは、地獄のような戦場の実相ではなく、美辞麗句で飾り立てた情緒的な物語を好みます。
彼らは誰一人として、靖国神社を参拝する時に、先の戦争で命を落とした日本の軍人と軍属の6割、約140万人が「餓死者だった」とは言いません。戦没軍人約230万人の全員が「敵と戦って散華した」かのように語ります。
この政治家の行為は、一見すると先の戦争で亡くなった日本の軍人と軍属に寄り添っているように見えて、実は正反対で、軍人と軍属の命を著しく軽んじています。
なぜなら、彼らを死なせた「原因」を批判的に検証したり、彼らを死に追いやった「責任者」を批判的に追及するそぶりを、一切見せていないからです。
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(戦史・紛争史研究家 山崎 雅弘)

倒壊した自宅から聞こえた祖母の声、やがて途絶える…夜通し救助待った家族「助けられなくて悔しい」

最大震度7の揺れが襲った熊本地震の被災地では1日時点で、家屋が倒壊するなどして36人の命が失われた。突然、大切な家族を失った遺族は、やり場のない思いを抱えている。(柏木万里)
「あと少しだったんです。声が聞こえていたから……」
7月28日午後4時27分に発生した地震で、震度7を観測した氷川町。2階建て木造住宅の1階の寝室などがある部分が押しつぶされた自宅の前で、祖母の齊藤絹子さん(91)を亡くした修治さん(43)がつぶやいた。
絹子さんは、修治さん夫妻とその2人の子、修治さんの母の京子さん(67)との6人暮らし。地震が起きた時は絹子さんだけが在宅しており、1階の寝室で休んでいたところ、倒壊に巻き込まれたとみられる。
買い物から急いで戻った京子さんは、倒壊した家屋を目の当たりにし、「お母さん!」と叫んだ。すると、「助けて」と絹子さんの声が、がれきの中から聞こえた。「まだ、生きている」。発生時に勤務先の宇城市にいた修治さんや家族、近くの住民も駆けつけ、絹子さんの救助を試みた。
がれきの下の隙間を必死にこじ開けると、ベッドの上に横たわる絹子さんの顔が見えた。修治さんが声をかけると、「大丈夫だよ」と答えたという。だが、大きな家屋の重みは人力ではどうにもならなかった。そばに近寄ることはできず、ストローをさし入れたペットボトルを物干しざおにくくりつけ、口元に持っていこうとしたが、難しかったという。
午後8時前、何度呼びかけても絹子さんの返答がなくなった。他にも被災している人がおり、家族は倒壊した家屋の前で夜通し救助を待ったが、絹子さんが助け出されたのは翌日の正午前だった。すでに息を引き取っており、京子さんは、「助けられなくて悔しい」と声を絞り出す。
花卉 ( かき ) 農家だった絹子さんは、花をとても愛していた。現役時代はいつも畑作業に真剣に向き合い、押し花も楽しんでいた。引退してからも、自宅の前にはたくさんのプランターを置き、多種多様な花を育てていた。修治さんは、「大切に水やりをして植物を育てていたばあちゃんの姿を、いつも見ていた」と振り返る。
話し好きの明るい人柄で、演歌を歌うことや、ダンスが大好きだった。自宅ではいつも、ちょっかいを出しに来た幼いひ孫を、手押し車を押しながら追いかけて笑っていたという。
絹子さんが大切に保管していた押し花や着物は、がれきの下に埋まってしまった。プランターはいくつも割れて、断水が続く中で水やりができないままだ。
それでも、猛暑の中で、家族は絹子さんとの思い出の品を探していた。修治さんは、汗をぬぐいながら思いをはせた。「たくさん遊んでくれたこと、面倒をみてくれたこと、ずっと忘れない」