【速報】金塊3.5キロ7220万円分奪われる詐欺 警察官名乗る男ら「全財産を調べる」 札幌市
7000万を超える金塊がだまし取られました。
きっかけは警察官や検察官を名乗る男からの電話でした。
札幌市西区の80代の男性は今年9月、“警察官を名乗る男”から「口座がマネロンに使われています」などとウソの電話があり、その後“検察官を名乗る男”から「無実を証明するためにあなたの全財産を調べなければならない。金を購入してもらいます」と指示され、金塊を購入しました。
男性は3回にわたって、3.5キロの金塊・7220万円分を自宅前に置き、 だまし取られたということです。
証拠品が残っている可能性…26年前に名古屋の主婦が殺害された事件 殺人の容疑で69歳女の自宅を家宅捜索
26年前に名古屋市西区の主婦が殺害された事件で、警察は2日、殺人の疑いで逮捕された女の自宅を家宅捜索しました。 港区東海通のアルバイト・安福久美子容疑者(69)は、1999年11月、西区稲生町のアパートで主婦の高羽奈美子さん(当時32)の首を刃物で複数回刺すなどして殺害した疑いで2日朝に送検されました。 (リポート) 「午後1時40分です、警察が安福容疑者の自宅に捜査員が入っていきます、これから捜索が行われます」 警察は犯行を裏付ける証拠品が残っている可能性があるとして、2日午後、殺人の容疑で安福容疑者の自宅を家宅捜索しました。 安福容疑者は奈美子さんと面識はなかったとみられ、警察は押収した資料の分析を進めて、犯行の経緯などを詳しく調べる方針です。
付け焼刃の「おこめ券」に朝令暮改のコメ政策。高市政権の農政の転換は正しいのか? 「財政の壁」を乗り越え、今こそ農業に積極財政を
「令和の米騒動」は一過性の出来事ではない。緊縮財政のもと農業予算が削減され続けてきた農政の末路である。東京大学大学院特任教授(食の安全保障)の鈴木宣弘さんは 『令和の米騒動 食糧敗戦はなぜ起きたか?』 (文春新書)で分析する。いまこそ「農業にこそ積極財政」を。「財政の壁」を超えられるかどうかが、日本の未来を左右しそうだ。 果たして高市新政権下で日本の食をめぐる政策は良い方向に向かうのか? 「おこめ券」配布の是非は?
「財政の壁」を乗り越える 今こそ「農業にこそ積極財政」を
高市新総理は以前から「食料自給率100%を目指す」と宣言していた。すぐに達成できるかと言えば実現性の乏しい目標ではあるが、その方向性と意欲は賛同できる。令和の米騒動で多くの人が実感したように、食の安全保障は命に関わる一大事だからだ。
また、「積極財政」を掲げていることも評価される。緊縮財政のもと、米国からの要請に対応した多大な支出を埋め合わせるために、農業予算は長らく歳出削減の標的にされてきた。今度こそ、「農業にこそ積極財政」を実現できるか。まさに正念場だろう。自民党の「積極財政議員連盟」リーダーの城内実議員が引き続き入閣されているのも期待したいところだ。
植物工場で食料自給率向上?
しかし、どうやって食料自給率を上げていくのか具体的な方策について問われ、総理から第一に挙げられるのは植物工場だ。これでは、現場の実態をよく把握しているとは言い難い。
屋内で生育環境を人工的に制御しながら野菜などを栽培する植物工場は、初期投資もランニングコスト(特にエネルギーコスト)も高く、採算ベースに乗っているものはベビーリーフ(葉丈10~15cm程度で収穫した幼葉の総称)などかなり少ない事例だと関係者は口を揃えて言う。土壌からの微量栄養素に欠けるという問題はさておいても、植物工場で食料自給率が大幅に向上できるという発想は現実離れしている。
しかも、外国のお客様に饗するのは自国の自慢料理が当然なのに、訪日したトランプ大統領に米国産米と米国産牛肉を出すのはおもてなしではない。日本の国産米と和牛のレベルの高さを実感してもらうのが自給率向上の観点からも当然ではないか。
朝令暮改の農政では再び米騒動が起きかねない
また、コメ政策については、石破政権では増産の方向性が示されたのが、あっという間に覆されて、来年は減産の方向性が示された。高市総理の所信表明にもあった「需要に応じた生産」が何よりも原則だとの主張はわかるが、米騒動の原因を顧みてほしい。
『令和の米騒動 食糧敗戦はなぜ起きたか?』(文春新書)で詳述したように、米騒動が起きた背景には、需給調整を減反でギリギリに行おうとして消費の変化と猛暑の影響に対応できなかったという事情がある。消費の変化はトレンドで単純に予測するのは困難なことも判明した。不確かな需要予測に合わせて生産を絞り込もうと「再生協議会」ルートで全国に指示すると、生産現場の疲弊と猛暑の影響で生産が減りすぎてしまう(再生協議会とはコメ需給の見通しをもとに示される「生産の目安」(適正生産量)を県、市町村、農協などを通じて農家まで周知する組織)。
迷走するコメ政策 わずか数か月で増産から減産の理不尽
この反省なしに、また生産を絞り込んだら元の木阿弥である。米騒動が再燃しかねない。いま必要なのは、農家が安心して増産できるセーフティーネット策を明確にしたうえで、需給にゆとりができるように生産を確保することではないだろうか。
生産者のコストに見合う価格を市場価格が下回ったら、その差額を直接支払いする政策を導入すれば、消費者は安く買えて、農家は所得が確保できる。「価格にコミット(関与)しない」政策というのは、まさに、こういう政策だ。しかし、この直接支払いには、少なく見積もっても5千億円以上の予算が必要になる。農業予算を絞り込もうとしている財政当局がウンと言うわけがない。
「価格に関与しない」の論理矛盾
増産で価格を引き下げて消費者を助けると生産者への直接支払いが必要になり、それは財政制約で不可能である。そこで、生産を抑制して価格はできるだけ下がらないようにして、消費者には「おこめ券」の配布という愚策が登場した。
そもそも、「価格に関与しない」と言いながら生産を抑制したら、それはまさに価格に関与していることになるということが理解されていないようである。下がらないコメ価格に対して何らかの手当てをする姿勢を消費者に示す必要がある。そこで「おこめ券」を配布するという付け焼刃の対策が出された。仕組みの作り方によるが、このほうが財政負担は少なく済むだろう。
しかし、これが需給と価格の安定につながる根本的解決策では到底ないことは明らかだ。「おこめ券」の配布によって消費者のコメ購入が増えれば、むしろ、「おこめ券」にはコメ価格自体を上昇させる効果があると思われる。
米騒動の教訓から学べ 備蓄を減らす国に未来はない
農業とはそもそも豊凶変動が大きい営みなので、生産で調整しようとしても限界がある。猛暑の影響も強まる中ではなおさらだ。見込んだ収量が確保できるとは限らない。変動要因はますます強まっている。これまで農家も農協もよく頑張ったが、これからは生産調整でなく出口で調整する仕組みの強化が不可欠だ。
1つは備蓄用のコメや国内外の援助用のコメについて政府買上げ制度を構築することだ。買上げと放出のルールを明確にして需給の調整弁とする。さらに、輸入小麦のパンや麺をコメで代替し、飼料用の輸入トウモロコシもコメで代替し、コメ油で輸入の油脂類も代替するといったコメの需要創出に財政出動することだ。主食としてのコメ消費の他に、様々な出口が考えられるだろう。
しかし、備蓄米について指摘しておきたいのは、政府が掲げる100万トン程度という数字は日本国内のコメ消費の1.5カ月分でしかなく、いざというときにどれだけの期間、子ども達の命を守れるかと考えたら少なすぎるということだ。命に直結する問題であるからこそ、備蓄米を増やすのは安全保障のコストとして負担されるべきと考えられる。ところが逆に、予算をかけたくないから政府備蓄米を減らす方向での検討に入っている。
「朝令暮改」とこのような逆行政策では米騒動は解決できない。しかも、コメの高価格が続くと、輸入米がさらに増加して市場を圧迫し、稲作農家の廃業を加速してしまいかねない。「あと5年以内にここでコメ作る人はいなくなる。この集落は人が住めなくなってくる」との懸念が全国各地で聞かれる現実を直視してほしい。
ピントのずれた植物工場や「おこめ券」ではなく、安心してコメを増産できるセーフティーネットの整備、そして備蓄米を含む政府在庫の買い入れ・放出ルールを明確化した運用こそが求められるのではないだろうか。需給と価格を安定化させ、農家と消費者の双方を守る政策が待たれる。
鈴木憲和農水大臣は、職員への訓示で、「財務の壁を乗り越えよう。全責任は私が負います」と発言した。ぜひ、有言実行に期待したいところである。
(鈴木 宣弘/文春新書)
「関門海峡突破させるな」クマの生息域拡大に警戒の声 九州で絶滅も山口県で多数の目撃
東北など東日本を中心にクマによる人身被害が相次ぐ中、九州にクマがいないことが話題になっている。九州では昭和62年にツキノワグマが捕獲されたのが最後で、環境省が平成24年に絶滅を宣言した。ただ、今年は海峡を挟んで山口県でも多数の目撃情報があることから、九州に移動する可能性を巡ってさまざまな声が飛び交う。一方、生息数がわずかな四国では生物多様性の観点から保護活動が行われており、クマとの向き合い方は地方によって大きく異なっている。
固有は昭和32年が「最後」
九州は東北と同様に深い山が広がり、熊本県もあることから、クマがいる印象を持たれるが、実は「森」の環境は大きく異なる。
クマの生態に詳しい森林総合研究所東北支所の大西尚樹・動物生態遺伝チーム長によると、東北はクマが好む実がなる広葉樹林帯が広がるのに対し、九州は明治期に木材需要の増加で山林が広く伐採され、現在は人工林が多い。広葉樹が減少した時期にクマの生息域が狭まり、繁殖相手がいなくなったことで数が減少したとみられるという。
九州は60万~40万年前、陸続きだった朝鮮半島から最初にクマが渡ってきたとされ、かつては広く生息していたが、記録によると、明治から昭和初期に捕獲されたツキノワグマは46頭。昭和16年にオスが捕獲され、32年に子グマの死骸が発見されて以降は目撃が途絶えた。62年に大分県で発見されたオスも、同研究所などの遺伝子解析で、福井県から岐阜県に分布するタイプと判明した。本州から持ち込まれた可能性があり、九州固有のタイプが半世紀以上確認されていないとして、環境省が平成24年に絶滅を宣言した。
大西氏は「ツキノワグマが主に生活するのは広葉樹林の森で、東北は広く残ったため絶対数が多い。九州は山林伐採でクマなど森林に依存した動物が減り、繁殖相手の不在で数が回復できなくなった」と分析する。クマが希少生物となったことで明治以降は狩猟者の間で「クマを撃つと7代たたられる」ともいわれたといい、宮崎県にはクマ塚と呼ばれる供養墓も残る。
今年度は目撃200件
一方、海峡を挟んだ山口県では、今年度のクマの目撃件数はすでに200件に上る。東北などでの人身被害を受け、SNSでは「関門海峡を突破させるな」などの声が上がり、クマが海を渡る可能性について取り上げる報道も目立つ。
関門海峡は最も狭い所で約650メートルで、大西氏は「距離的には泳げるが、潮の流れを考えると難しいだろう」との見方を示す。しかし山口県内でクマの密度が高くなり、オスのクマに新天地を求めるモチベーションが出れば泳ぐこともあり得るとし、「5年後はないが、50年後はあるかもしれない」と指摘する。
山口県農林総合技術センターによると、同県内の目撃情報はこれまで東部が中心だったが、3年ほど前から西部にも相次ぎ、イノシシのわなにはまって捕獲されるケースもあった。河川に沿って移動している可能性があり、同センターの担当者は「捕獲されるのはオスで、東から移動したもののメスもおらず、元の場所にも戻れず動き回っている印象だ」と語る。クマに対する対処法を知らない住民も多いことから県は警戒を強め、住民が登山イベントを中止する動きも出ているという。
四国では保護対象に
九州と海を隔てた四国では徳島県と高知県にまたがる剣山系とその周辺に生息するが、NPO法人「四国自然史科学研究センター」(高知県)によると、昨年度確認されたツキノワグマはわずか26頭。数百~数千頭が目撃される東日本と大きく異なり、環境省レッドリストで「絶滅の恐れのある地域個体群」とされている。
四国のツキノワグマはアジア大陸の中でも古い系統を持つ希少な個体群で、独自の進化を遂げてきたとみられている。九州に続き四国でも絶滅すれば、多様な生物の一つが喪失することになり、同センターは関係機関と連携し、クマの保護と住民の暮らしを守るという課題に取り組んでいる。
山田孝樹センター長は「住民がクマに対する知識を習得し、誘引物の管理を徹底することが重要だ」と強調。「近年の状況を受けてクマに恐怖を抱く人も多いが、しっかりと対策することが、被害を出さずに共存することにつながる」と話している。(一居真由子)
パークゴルフ場に向かう途中 川に車転落 男性死亡 北海道興部町
興部町できのう、川に転落したトラックが見つかりました。
車内からは男性が発見され、その場で死亡が確認されました。
トラックが転落していたのは興部町の興部川できのう午前6時半ごろ、河川敷のパークゴルフ場の関係者が発見しました。
車内からは町内に住む打田享さん75歳が見つかりましたがその場で死亡が確認されました。
打田さんはおととい、パークゴルフ場に向かう途中で行方不明になっていました。
川は大雨の影響で水位が上がっていたということです。
「お父さんが死んじゃった」家族が失踪…その時“残された側”にできることとは「捜索願を出しても、警察はなにもしてくれない」《年間の行方不明者は約9万人》
「失踪」── ゲームのように人生をリセットする方法の一つかもしれない。これまでの縁を切り、知らない場所で、知らない人たちと、新しい人生を送る。一方で、縁を切られた側の思いは複雑だ。
風俗嬢として働く女性・緒月月緒さん(仮名)は、金遣いの荒い母に苦しめられて経済的に困窮し、18歳になった翌日から夜の世界へ飛び込んだ。血の繋がっていない父の失踪は、その仕事が板についてきた矢先のことだった。父は何を思って、どこに失踪したのか。
フリー編集者&ライターとして活躍する松本祐貴氏の著書『ルポ失踪 逃げた人間はどのような人生を送っているのか?』(星海社)から一部抜粋して再構成。【全2回の第1回】   * * *
27歳の時に父が失踪
月緒が27歳のとき、父がいなくなった。
その日付もわかっている。3月4日に会社の寮から夜逃げをして、失踪したのだ。月緒が母から父の失踪を知らされたのは、4月になってからだった。
それ以前から月緒は「お父さんの様子がおかしい。絶対にうつ病だよ」と母に兆候を伝えていた。
例えば、毎年大晦日とお正月は離婚した父も含む家族みんなで過ごしていた。しかし、その年の父は年を越す前に会社の寮へ帰ってしまった。      父の仕事はトレーラーの運転手。年をとって、給料も下がってきていた。いなくなる前日にも異変があった。プロドライバーである父が運転中にコーヒーにむせて壁に激突した。幸い人身事故ではなく、会社は「長年働いているので、責任は問わない。定年までいてほしい」と温情をみせてくれた。この事故とそれまでのうつ傾向が、失踪への契機となったのかもしれない。
月緒に突然「10代のとき専門学校に行かせられなくてごめん」と謝ってきたこともあった。父の意固地な性格を知る月緒はいぶかしがった。そのときに父は「生まれ変わったら鳥になりたい」などとも口走っていた。
「あの人がうつだなんて信じられない」
母はそうこぼすだけだった。月緒は仕事のお客さんでうつの人を見慣れていた。父はその状態に近かった。
すでに4人いた子どもたちも成人し、父は養育費を渡す必要はなかった。母は「あと数年経っておだやかな気持ちならまた一緒に住んでもいい」とまで言っていた。そんな状況下での突然の失踪だった。
母は警察に捜索願を出した。
見つかった時、父の所持金は32円だった
失踪者の家族はどんな状況に置かれるのか。
「年間、数万人がいなくなるんですよね。その中にお父さんも入っていたんです」
高市内閣「支持率80%超え」の陰で──“後ろから鉄砲”石破茂と側近たちの「失敗の本質」と「だらしない政治」への国民の審判
先月発足した高市内閣が異例の高支持率にわいている。報道各社の世論調査で概ね7割前後、なかには8割を超すものもある。一時は「知性的」「改革派」とも呼ばれた石破政権だったが、その失敗の本質はどこにあったのか?
【画像】会場はガラガラ…総理退任直前に行われた、国連総会での石破氏の演説模様
国民に対する姿勢の「だらしなさ」こそが、彼らを敗北へと導いた
高市内閣が異例の高支持率にわいている。勝者の高らかな凱歌の陰で、敗北の苦汁をなめる者たちがいる。その筆頭が、総理の座にしがみつきながら、自民党員から見放された石破茂前首相である。
そして、石破政権で中枢を担っていた側近、平将明氏と木原誠二氏。この三人の政治家の凋落は、単なる権力闘争の帰結ではない。それは、彼らが掲げた政策の底の浅さ、国民を欺く姿勢、そして政治家としての本質の欠如が招いた、必然の結末であった。
かつて石破内閣が発足した際、閣僚写真で見せたズボンのだぶつきを、世間は「だらし内閣」と揶揄した。しかし、問題の本質は服装のだらしなさにあるのではない。思想の、政策の、そして国民に対する姿勢の「だらしなさ」こそが、彼らを敗北へと導いたのである。
本稿では、石破氏、平氏、木原氏の三名に焦点を当て、その失敗の本質を冷徹に解剖していく。これは彼らへの鎮魂歌であり、同時に、日本の政治が二度と同じ過ちを繰り返さないための、痛烈な警鐘でもある。
石破氏は本当に「知性的」「政策通」だったのか
石破茂という政治家は、常に「知性的」「政策通」というイメージを纏ってきた。しかし、そのメッキは、いとも容易く剥がれ落ちる。最近で象徴的だったのが、戦後80年談話で披露した、その驚くべき歴史認識の浅薄さである。
石破茂は、リベラルなポーズを取り繕うかのように、政治学者・丸山眞男を引用し、「元老院のおかげで軍事の暴走が止められた」と主張した。一見、知的な響きを持つこの発言は、しかし、歴史的事実を致命的に誤解した、空虚な言葉の戯れに過ぎなかった。
丸山眞男が論じたのは、明治期において元老院が一定の軍事コントロール機能を果たしたという点である。昭和初期、日本を破滅へと導いた満州事変以降の軍部の暴走は、元老院の衰退が直接の原因なのではなく、政党政治の機能不全や統帥権の独立など、国家システム全体の構造的欠陥に根差している。
カネを配れば地域が活性化するという発想
この一件が暴き出したのは、石破氏の知識が、深い思索や哲学に裏打ちされたものではなく、単なる引用と受け売りの寄せ集めであるという事実だ。歴史を、自身の「知性」を演出するための小道具としてしか見ていない。
それは政策面においても一貫している。石破氏は、またしても地方創生などと言って、補助金をばらまいた。カネを配れば地域が活性化するという発想自体が、地方が抱える構造的な問題を全く理解していない証左である。
理念なき資金投下は、単なる富の再分配ゲームに堕し、納税者の汗の結晶を無に帰すだけである。
大阪・関西万博における石破氏の振る舞いもまた、空虚であった。公式キャラクターのミャクミャクを抱え、「楽しい日本」などと空疎な言葉を繰り返した。しかし、石破茂自身が万博の成功に具体的に何を貢献したというのか。その姿は、中身のない政策を覆い隠すための、象徴的パフォーマンスに終始した。
平将明氏がその主張を裏付ける物的証拠を示すことは、ついになかった
石破氏の側近としてデジタル大臣の重責を担った平氏は、その職責とは裏腹に、デジタル社会と自由な言論空間への冒涜者として歴史に名を刻むことになった。
それは、自身の理解を超える複雑な事象に直面した際、熟慮や分析を放棄し、安易な「陰謀論」に逃げ込んだことにある。権力者として最も恥ずべき知的怠慢であった。
時事通信の報じるところでは、<平将明デジタル相も閣議後の記者会見で、「外国においては、他国から介入される事例なども見て取れる。今回の参議院選挙も一部そういう報告もある」と述べ、注意深く見守る姿勢を示した>という。
選挙という民主主義の根幹を揺るがす重大な指摘である。しかし、平氏がその主張を裏付ける物的証拠を示すことは、ついになかった。何の根拠もなく自分たちへの批判に「外国の陰謀」というレッテルを貼り、言論を封殺しようとする、極めて危険な試みであった。
根拠の薄い介入仮説に依拠した姿勢
客観的な分析は、平氏の主張がいかに杜撰なものであったかを物語っている。
東京大学の鳥海不二夫教授は、Yahoo!ニュース(2025年7月16日)に寄せた分析で、特定のニュースサイト関連アカウントのフォロワーに、ロシア政府系メディア「Sputnik」の情報を拡散する層が多いことをデータで示した。これは事実である。
しかし、鳥海教授は、このデータから「ロシア製ボットが参政党と深い関係にある」と結論付けることは飛躍であり、陰謀論的な過大評価であると明確に釘を刺している。冷静な専門家の分析を称賛したい。平氏は、この科学的な態度を爪の垢ほどでも煎じて飲むべきであった。
平氏の行動は、気に入らない意見を持つ級友を「あいつはスパイだ」と叫んで排斥しようとする「こどもの論理」だ。複雑な現実を理解する努力を怠り、全ての原因を単純な敵の存在に求める。権力者がこの陰謀論という麻薬に溺れるとき、社会の分断は決定的なものとなり、自由な議論の土壌は完全に破壊される。
「現金2万円給付」の木原誠二氏
そして、石破派のブレーンと目され、岸田政権から石破政権に至るまで権力の中枢にあり続けた木原誠二氏。その本質は、国家の百年を見据える経世家ではなく、目先の選挙と政権維持のためだけに知恵を絞る、小手先の策士といえないか。
木原誠二氏の政策には、経済合理性というものが存在しない。あるのはただ、「いかに国民の不満を一時的に逸らし、政権を延命させるか」という、冷徹な政治工学だけである。
その典型が、岸田文雄元首相の「増税メガネ」という不名誉なあだ名への対応として推進した、4万円の定額減税であった。
この政策は、多くの専門家やメディアから「手間ばかりかかり、経済効果は薄い無意味な減税」と酷評された。経済を良くするための手術ではなく、国民の怒りという痛みをごまかすための一時的な鎮痛剤ともいえる。
高市政権によって当然の如く葬られた「現金2万円給付」。週刊文春(2025年6月19日)が「自民党が突如、7月の参院選公約に、全国民に1人当たり2万円の給付金を配るとぶちあげた。野党がこぞって打ち出した消費減税への対抗策だが、このプランを考えたのは自民党の木原誠二選対委員長(55)だった」と報じた。
国民はもはや、空疎な言葉や小手先の政策には騙されない
木原氏は国民にアメを配る政策の立案に長けている。しかし、それは国民を賢明なパートナーとしてではなく、容易に操作できる愚かな大衆と見なしているからこそ可能な芸当である。
国民は、目先の現金給付よりも、持続可能な社会保障や安定した経済成長を望んでいる。この根本的な願いを理解せず、騙し討ちのようなトリックを弄する政治家は、国民からの信頼を永遠に失う。
この状況は単なる権力闘争の敗北ではない。「政策の浅さと失敗の本質」が、国民に見透かされたからである。
石破氏が弄した歴史からの引用は、深い洞察を欠いた浅はかな屁理屈に過ぎなかった。平氏が見せた言論統制への欲望は、民主主義の根幹を揺るがす自由への敵意そのものであった。そして木原誠二氏が主導した付け焼き刃のバラマキで日本経済はどん底寸前に追いやることになる。
彼らの退場は、日本の政治がようやく、この致命的な病から回復するための一歩を踏み出したことを意味しているのかもしれない。この苦い教訓を、我々は決して忘れてはならない。
国民はもはや、空疎な言葉や小手先の政策には騙されない。その冷徹な視線は、次なる指導者が、確固たる哲学と誠実さを持っているか否かを、静かに、そして厳しく見定めている。
文/小倉健一
昭和天皇をパチンコ玉で撃った元日本兵――奥崎謙三はなぜ「天皇制」を攻撃対象としたのか?
〈「8月15日に靖国神社で花束からドスを抜いて…」奥崎謙三が構想していた『ゆきゆきて、神軍』幻のシーン〉から続く
戦時中、極限状態のジャングルを生き抜き、のちに昭和天皇をパチンコで撃った元日本兵――奥崎謙三の破天荒な言動を追った『ゆきゆきて、神軍』は、今なお日本のドキュメンタリー映画の最高傑作と名高い。同作のメガホンをとった映画監督の原一男と、元刑務官で作家の坂本敏夫が、再び奥崎を語り尽くした。
【画像】昭和天皇をパチンコ玉で撃った元日本兵・奥崎謙三
昭和天皇をパチンコ玉で撃った男
『ゆきゆきて、神軍』(今村昌平企画、原一男監督)は、1987年に公開されたドキュメンタリー映画。太平洋戦争の飢餓地獄、ニューギニア戦線で生き残り、自らを人間の作った法と刑を恐れずに行動する「神軍平等兵」と称して、慰霊と戦争責任の追及を続けた奥崎謙三の破天荒な言動を追う名作だ。
奥崎は第二次大戦中、日本軍の独立工兵隊第36連隊の一兵士として、激戦地ニューギニアへ派遣されていた。ジャングルの極限状態で生き残ったのは、同部隊約1300人中、わずか100名ほど。
その後は1956年、店舗の賃貸借をめぐる金銭トラブルから悪徳不動産業者を刺殺し、傷害致死罪で懲役10年。1969年、皇居の一般参賀で昭和天皇にパチンコ玉を発射し、懲役1年6か月。
1972年、ポルノ写真に天皇一家の顔写真をコラージュしたビラを約3,000枚をまき、懲役1年2か月。1981年、田中角栄殺人予備罪で逮捕、不起訴。1987年、殺人未遂等で懲役12年の判決……と、一貫して天皇の戦争責任を訴え、2005年に亡くなるまで希代のアナーキストとして活動した。
今年は今年は戦後80年でもあり、奥崎謙三氏について直接本人を知る原一男さんと坂本敏夫さんにその人物をあらためて語ってもらうことで戦後の検証に近づけようと思います。
坂本さんは、奥崎さんが不動産商業者障害致死事件で大阪刑務所に初犯で入っていたときに刑務官として、原さんはその後、奥崎さんが「皇居一般参賀でのパチンコ発射事件(1969年)」、「銀座・渋谷・新宿などでの皇室ポルノビラ配布事件(1976年)」を起こして前科三犯となり、出所後にその過激な活動をドキュメンタリー監督として追うことで、それぞれに濃密な接点があったわけです。
以前も聞きましたが、そもそも坂本さんが刑務官になるきっかけというのも奥崎さんであったということでしたね。
坂本 父は戦時中、出征先の沖縄戦で重傷を負い、終戦後米軍の野戦病院に6ヵ月入院、昭和21年3月に退院し復員。母が身を寄せていた熊本の実家に帰り、熊本病院に5ヵ月余り再入院の後、退院し熊本刑務所の刑務官として採用されました。当時の刑務所長に将来を嘱望された父は幹部の道を進みます。
10年弱の現場経験を経て、法務省矯正局に異動し、1963年12月暴力団抗争(所謂「仁義なき戦い」と言われている抗争)の余波を受けて、規律秩序が紊乱した広島拘置所の立て直しという法務大臣の特命により所長として赴任します。
広島拘置所を立て直した父は1966年4月、日本一の特大施設・大阪刑務所の管理部長として赴任しました。管理部長というポストは受刑者処遇と刑務作業を統括するナンバー2ポストです。
ちょうどその年は、監獄法に関する省令が革命的に改正され、受刑者の人権が大幅に保障されました。受刑者の人権意識の高まりによって受刑者からの所長面接願いが多数提出されていました。父は大阪刑務所でも指折りの処遇困難者(クレーマーなど)の面接を一手に引き受けました。
そのうちの一人が奥﨑さんだったのです。面接時間は通常の数倍、回数も複数回だったと、私が刑務官になってから関係職員にききました。
おそらく、奥﨑さんからは彼の体験した驚愕する戦争体験を聴き、父も筆舌に尽くしがたい、生きるために封印していた沖縄での悲惨な体験を思い出したのでしょう。今でいうPTSDが発症してしまうんです。それで心を病んで入院するのですが、6階の病室から飛び降りて自死してしまう。
その後、父の同僚に東京の大学生だった私が呼び戻されて、私が父の後を継いで刑務官になれば、官舎にいるお前の母や弟もそのままでいられるというので、私は刑務官試験を受けて合格したわけです。
職務に就いて驚いたんですが、奥崎が刑務官で唯一話ができるのは私の親父だったと言っていたそうなんです。
ある日、奥﨑さんが独居生活で世話になったという刑務官Aさんを訪ねてきました。そのAさんが、私の官舎にやって来て、「奥﨑謙三があんたに会いたがっている。管理部長の息子が刑務官になったと聞いて、どうしても会いたいと会いに来た」というのです。
それで私がAさんの官舎に行くと、奥﨑さんは満面の笑みで私を迎えてくれました。
奥崎謙三の影響力
原 お父さんが沖縄に派兵されたのはいつごろですか?
坂本 1944年4月2日です。父は1941年3月早稲田大学を卒業し翌年2月に招集があり輜重兵として第37連隊に入隊を命ぜられました。門司港から釜山港に渡り山西省に展開していた部隊に着隊、以後幹部候補生として教育に臨み43年4月原隊に曹長として復帰しました。
12月少尉に昇進。44年3月独立歩兵第14大隊に転属し上海を出港しました。着いたのは沖縄県那覇港。ここで、沖縄戦守備隊の先遣隊員として上陸したことを知ります。
以後、7月から9月にかけて大量動員される沖縄守備隊本隊【沖縄本島(第九師団、二四師団、第六二師団)、宮古島(第二八師団、独立混成六〇旅団、同五九旅団)、石垣島(独立混成第四五旅団)、大東島(歩兵第三六連隊)】の受け入れ準備に奔走しました。
開戦後は本隊に所属し一般住民と共に最後の激戦地となる魔文仁の丘まで追い詰められ、そこで敵弾に倒れ重傷を負いました。復員したのは46年3月です。したがって父は住民を巻き込んだ沖縄戦の悲劇全てを目に焼き付けていたのです」
原 沖縄で米軍上陸を迎え撃って、摩文仁の丘での戦いをされたということですから、本当に厳しい戦争体験をされたんでしょうね。
奥崎さんもニューギニアのジャングルの中で泥にまみれ、飢餓や銃撃とも戦ってきたわけですから、お互い感じ合うものが多かったんでしょうね。お父さんが奥崎さんと出逢ってから亡くなるまでの時間はどれぐらいあるんですか?
坂本 1966年4月1日、父は大阪刑務所の管理部長として赴任しました。着任早々は受刑者と面接する時間はありません。余裕ができるのは早くても3ヵ月後ですね。
したがって面接したのは6月中旬だと思います。母の話では6月半ばから不眠が続いていたとのことです。大阪労災病院に入院したのは7月に入ってすぐでした。死亡(自死)したのは8月10日ですから2ヵ月弱です」
原 自死された原因はそれだけではなかったかもしれませんが、ニューギニアと沖縄、お互いの戦争についての話をされる中で、奥崎さんが発した言葉からかなり大きなインパクトを受けたということでしょうか。
立場は受刑者と刑務官でありながら、部下を死なせてしまったという思いを封印していた元軍人に対して大きな影響力を持っていたのは事実ですね。お父さんと奥崎さんは天皇についても話し合われていたんでしょうか。
坂本 父は法務本省で11年余り要職についた経験があります。当時、上司から中央官庁につとめる役人は保守政党の支持でなければ問題だ! と言われたそうですが、父の社会党支持は揺るぎませんでした。
悲惨な戦争体験があったから野党への思いが強かったのだと思います。奥﨑さんと昭和天皇の話し合いをしたこというご質問ですが、父は天皇制に対する意見を述べたのではないかと思います。
ただ、ニューギニアと沖縄戦の体験談は盛り上がったのでしょう。第3区事務所内の調査室での面接は一般的には、せいぜい30分のところ父との面接は4時間にも及んだというのですから、波長がぴったり合ったのだと思います。
原 奥崎さんには、ひとつの行動パターンがあってね。自分のことを認めてくれる人、自分のことを評価してくれる人にはその人のことも評価してすごく丁重に付き合うんです。それは一貫してそうだった。
だから刑務官の中にもいろんな人がいるんでしょうけども、きっとお父さんとは、認め合われたんでしょうね。
独居房で醸成した思想
奥崎さんが「国家は人間を阻害断絶するもの」「権力に対する服従は神に対する犯行である」「天皇と天皇的なるものを根絶した理想社会の実現」などのアジテーションを日常的にするようになったのは、妻のシズミさんによれば、初犯の大阪刑務所で10年の懲役刑をくらって独居房に入れられてからだったそうです。
それまでは口数の少ない人間だったとのことで、その意味では奥崎さんにとって刑務所体験というのが非常に大きかったということですね。
坂本 大阪刑務所で奥崎さんは、最初4 区という初犯で長期囚が入る区にいたんですが、問題を起こし続けて3区に移動させられるんです。4区には独居房がないんです。なので独居房のある 3 区へ行くのですが、ここはいわゆるヤクザ者、反社の人間が多いのです。
奥崎さんはそこでも他の受刑者と問題を起こし続けて案の定、独居房に入れられて『大阪刑務所で5指に入る処遇困難者』になるわけです。彼からすると、自分は人類の恒久平和のために活動している。他の受刑者と違うんだという強烈なプライドがあったわけですね。
原 奥崎さんが大阪刑務所に入った頃は、天皇の戦争責任を追及していくという思想性はまだ完全に確立していなかったと私は解釈してるんです。彼の著作に書いてあったんですが、思想における大きなきっかけで言うと、雑居房かどこかの便所で、他の受刑者と一緒に並んで小便をしていたそうなんです。
そのときに隣にいたのが、若いあんちゃんで、そいつが天皇陛下のことを天ちゃんと言ったそうなんです。それで衝撃を受けるんですね。俺たちが戦時中に現人神、神様と教えられてきた天皇がこんな若造に天ちゃんと呼ばれていると。
そうかそれで良いのだと、そこからかつての価値観が崩れていって、独房で沈思黙考の末、あの思想に繋がっていった。人間的な革命を刑務所の中でというふうに聞いています。
坂本 時系列で言えば、そこは符合していますね。奥崎さんは、懲役10年の6年目くらいから独居房でしたから。
「ヤマザキ、天皇を撃て!」と死んだ戦友の名を叫びながら
奥崎の母親は息子に対して「お前は良くしてくれた人に対しては良く返すが、悪くしてきた人には悪くする」と言っていたという。獄中の中での思索の末、最も自分に対して悪いことをしたのは誰か? それは天皇だという考えにたどり着く。
天皇の名によって行われた戦争で、奥崎が所属したニューギニアの独立工兵第36連隊は、隊員千数百人の内、生還できたのは捕虜になった奥崎と「ゆきゆきて神軍」にも登場する山田吉太郎元軍曹を含めごく少数だけだった。
奥崎は「無知、無理、無責任のシンボルであるヒロヒトを許せない」として1968年8月に出所後、翌1969年1月2日の一般参賀で天皇に向かって「ヤマザキ、天皇を撃て!」と死んだ戦友の名を叫びながらパチンコを発射する。
この事件の一報を聞いたとき坂本さんはどう思われましたか。当時は刑務官になられて二年目でしょうか。
坂本 やはりやったかと思いましたね。大阪刑務所では、5指に入る処遇困難者。それは刑罰を怖れず、独居房にいても自分が正しいと思ったこと、やりたいことをやり続けて来たからで、仮釈放も恩赦も考えていない。国に借りは作りたくないという彼の意志が出ていましたから、出所したら、一番やりたいことをするだろうと思っていました。
原 奥崎さんの手記の中で、自分が殺すべきは不動産屋さんではなくて、天皇だったと気づいたという記述が確か出てくる。それから少しずつ理論武装していくんですが、天皇個人を殺してもまた次の天皇が出てくる、それじゃ何も変わらない――天皇システムこそが、自分にとってターゲットだっていうようにだんだん思想形成されてくる。それから出所してすぐに山田吉太郎さんを訪ねているんです。
山田さんは、独立工兵36連隊にいた戦友で熱帯ジャングルの中を木の根をかじって生き抜き、戦後は単身で国家に喧嘩を売る奥崎謙三とは対照的な生き方をされた。家族を大事にしながら、ニューギニアでの体験を書き残して戦争について考えてきた人です。
しかし、奥崎さんは病床にある山田を見舞った際に、あなたが病気になったのは、戦後に穏健な一般市民のような生活をしたことで、それが間違っていたので天罰が下っているのだとなじる。
原 そう。奥崎さんは同じ連隊にいてあの地獄の中で生き残った山田さんは信頼できる人物だと思っていたんだね。そして昭和44年の元旦に山田さんに会いに行って、「自分は明日、天皇にパチンコを打つ、そのために今神戸から上京してきたんだ」と打ち明けてるんだよね。
その時も山田さんは、「奥崎さん、そういうやり方は良くない、もっと違うやり方がある。自分は違うやり方で亡くなった仲間の慰霊をやっている」と諫めたそうなんだ。奥崎さんは山田さんだけに決意を打ち明けて 2 日に皇居に行ったんです。
出所直後からのそういった歴史を聞くとあの映画の2人の対立のシーンというのはまた深い象徴的な意味を感じますね。
(ラストで奥崎と山田は互いの戦後の生き方について激しい論争を展開する。ニューギニアで飢餓に悩まされる中、部下を殺して人肉を食べたのではないかという疑惑が持ち上がり、何があったのか、真実を話せという奥崎に対し、山田が「ニューギニアで亡くなった人は家族にも聞かせられない死に方をしている、自分は自分なりのやり方で友を慰霊し平和を願って来た。それぞれのやり方があるではないか」と返すと、奥崎は激高して山田を押し倒し、革靴で蹴る。奥崎は暴力を振るったことを謝罪をしながらもこれからも自分の判断で人類にとって良い結果が出る暴力ならば大いにふるうことを宣言する)
後編に続く
取材・構成/木村元彦
現在、『水俣曼荼羅Part2』(仮題)の制作中
新・原一男ホームページ https://www.harakazuo.com/posts/57120967/
新・原一男情報 @shin_kazuohara
新・原一男チャンネル https://youtube.com/@shinharakazuo?si=WCgbD429xvQKZyZO
〈『ゆきゆきて、神軍』奥崎謙三が構想していた、人類の幸福のための「奥崎教」の全貌とは 〉へ続く
地域食堂でパレスチナ料理振る舞う 料理通じて支援 熊本
2年あまり続いた戦闘の影響などで困窮する中東・パレスチナの人々を支援しようと、熊本市で2日開かれた「地域食堂」という催しで、現地の食材を使ったパレスチナ料理が振る舞われた。参加者らは伝統の味を通し、遠く離れた紛争地域の苦しみに心を寄せた。
市内で活動する生活支援団体「飽託文食(ほうたくぶんしょく)」は、食事や生活物資を無償提供する催しを2カ月に1度開いてきた。こども食堂のように対象を限定せず、誰でも参加できることから地域食堂と名付けている。
パレスチナでは、2023年10月からガザ地区でイスラム組織ハマスとイスラエルの激しい戦闘が続いた。もう一つのヨルダン川西岸地区でもイスラエルが軍事圧力を強めてきた。多くの住民が亡くなり、暮らしも脅かされる中、飽託文食では、少しでも支えになろうと、オリーブオイルなどの産品を購入して活動に使ってきた。
そして今回は初めて、パレスチナ料理の提供に挑戦した。現地の香辛料やハーブを使ったペースト状の豆料理「フムス」と「タッブーレサラダ」などで、スタッフらがレシピを基に調理。会場の黒髪地域コミュニティセンター(中央区)のテーブルに並べると、訪れた近隣住民らが次々と口に運んだ。
同区の40代の女性は「おいしいですね。家でも作ってみたい」と舌鼓。ガザ地区の惨状に心を痛めていたといい、「料理を知ることで、パレスチナのことをより身近に感じられた気がする。支援の輪が広がってほしい」と願っていた。
ガザ地区の戦闘は25年10月に停戦に入ったが、散発的な衝突が続き、街は既に破壊し尽くされている。飽託文食の代表、大坪あすかさんは「復興は容易ではなく、これからも支援を続けていく。熊本からでも、できることがあるという姿勢を発信していきたい」と話した。
次回の地域食堂は2月21日午前11時から同区の碩台地域コミュニティセンターで。運営資金の寄付や物資支援の申し出は大坪さん(080・5250・5897)へ。【中村敦茂】
玄関をあけたところ自宅前の市道を移動する体長1.5m熊…センサーライトが反応し確認 福島
玄関をあけたところ自宅前の市道を移動する熊を目撃したということで、警察が付近の住民などに警戒を呼びかけています。
熊が目撃されたのは喜多方市塩川町常世字蟹沢地内の市道上です。2日午後7時40分頃、住民が自宅の玄関の戸を開放したところ、設置されていたセンターライトが反応しました。すると、自宅前の市道上を移動する体長およそ1.5メートルの熊がいたということです。その後、熊の行方は分かっていません。人的被害などは確認されていませんが、警察が警戒を呼びかけています。