自民不振、都民ファーストは堅調…都議選出口調査

東京都議選(定数127)は22日午後8時、投票が締め切られた。都内各地の開票所で順次、開票作業が始まる。
読売新聞が投票を終えた有権者を対象に行った出口調査などによると、都議会第1党の自民党は告示前の30から大幅に議席を減らす見通しだ。地域政党「都民ファーストの会」は堅調に議席を伸ばす。立憲民主党も議席増をうかがう勢いで、国民民主党や参政党は初議席を獲得する見込み。選挙結果が、直後の参院選に影響を与えるのは必至だ。

都議選の石破政権への影響、自民苦戦でも遠のく「石破おろし」…「連立」へのシナリオ

東京都議選(定数127)は午後8時に投票が締め切られ、開票作業が進んでいる。物価高や賃上げ対策などを争点に計295人の候補者が争う展開だ。今回の選挙は、4年ごとの都議選と、3年ごとの参院選が重なる通称「巳年選挙」。参院選の「先行指標」となる今回の選挙の結果は、石破政権の行方にどう影響するのだろうか。(編集委員・吉田清久)
政局に結びつく巳年選挙

国政での支持政党と、都議選での投票先は関連がある。それだけに各党は党首や党幹部を相次いで選挙区に投入し、国政選挙並みの力の入れようだった。石破首相(自民党総裁)も選挙戦最終日に二つの激戦区に姿を見せた。
「巳年選挙」には政局を引き起こした歴史があり、政権退陣につながったことさえある。
例えば1989年。都議選で自民党はリクルート事件、消費税問題などの逆風を受けて惨敗する。直後の参院選でも自民党は大負け。かたや土井たか子委員長率いる社会党は「マドンナブーム」で躍進し、当時の宇野内閣の退陣につながった。
「巳年選挙」は政権基盤の強化を後押したこともあった。
2013年は都議選で自民党は59人の候補者全員が当選し、都議会第一党を奪還。民主党は議席を大幅に減らして第4党に後退した。迎えた参院選は、自民党が65議席を獲得、自民、公明両党は非改選分を含めて参院の過半数を確保した。参院で与党が少数の「ねじれ国会」は解消した。安倍首相は長期政権への礎を築いた。
「石破おろし」は吹くのか

事前の情勢調査などをみると、どの勢力が大勝するわけでもない「勝者なき選挙」になる公算が大きい。しいて勝者をあげるとすれば、自民党かもしれない。
えっと思う人もいるだろう。なぜか。派閥に続き都議会でも政治資金の不記載問題が判明して逆風があるにもかかわらず、自民党は、議席は減らすが、ギリギリ踏みとどまった負け方で、石破首相は89年の二の舞(宇野政権退陣)をどうにか避けられそうだからだ。参院選に向け、当面「石破おろし」は起こりそうもない気配だ。
進次郎現象で楽観ムード?

続く7月の参院選についてむしろ、自民党内では楽観ムードが広がりつつある。降ってわいたような「小泉進次郎現象」が状況を変えたという。
「自民党への逆風は収まりつつある。政治とカネの問題は終わった。進次郎サマサマだ」(自民党ベテラン秘書)
というのだ。
極秘の情勢調査を踏まえ、「自民党の獲得議席は50議席前後で公明党と合わせ、非改選との合計で与党過半数は維持する」との分析が永田町で走り回っている。そのため、「参院選でそこそこ負けるにしても大敗とならず、石破政権は意外と長続きするのでは」との観測記事もあるほどだ。
とはいえ、である。参院で与党が過半数を維持するにしても、「衆院で少数与党政権」である事実は変わらない。
譲歩を重ねる政権運営に不満くすぶる

「熟議」という形で立憲民主党、国民民主党、日本維新の会に譲歩を重ねる石破首相の政権運営に対し、自民党内では不平や不満がくすぶっている。
「参院選後、ちょっとしたきっかけを機に『石破おろし』がマグマのように吹き出す可能性はある」(自民党中堅)
さしずめ、火を起こすのは旧安倍派ではないか。幹部だった萩生田光一・元政調会長あたりがまず狼煙をあげるとの見方がある。
国民民主に連立呼びかけか

「石破おろし」に対し、石破首相はどう動くのか。予防策として参院選後、維新や国民民主党に連立参加を働きかける可能性がある。石破首相は同じ鉄道オタクの前原誠司維新共同代表と信頼関係が厚い。私はテレビ番組で二人と何度か地方鉄道で旅したことがあるが、「ずいぶんと気持ちがふれあっているな」と感じていた。実際、携帯やショートメールで連絡を取り合う仲だ。
参院選後の政局のキーワードは「連立枠組の拡大」だろう。選挙区事情を勘案すると、野党第一党の立憲民主党との「大連立」はない。石破首相が自民党総裁選(任期は2027年9月)で再選されることはないというのが永田町の共通認識だ。それまでに石破首相が自らの手で衆院解散をやれるかどうか。

自民県議に「理解いただけないなら、お付き合いの仕方を考えたい」…知事が「不適切だった」と陳謝

富山県の新田八朗知事は21日、「理解いただけなければ今後の付き合いを考える」とした県議会での発言について「不適切な答弁をした」と陳謝した。
知事は18日、高岡市伏木地区出身の針山健史県議(自民党)から能登半島地震で液状化した地域への支援策について繰り返し質問を受け、「これでご理解いただけないとしたら今後のお付き合いの仕方を考えたい」と答弁。議員らが発言を問題視していた。
知事は21日、高岡市内で開かれた伏木保育園創立100周年記念式典に来賓として出席し、祝辞の中で「不適切な答弁により、伏木の方々に不愉快な気持ちをさせたとしたら、心から申し訳ない」と述べた。式典には針山氏も同席した。

自民惨敗、過去最低=都民ファ第1党、「知事与党」過半数―立民伸ばす、国民と参政に初議席、公明は全員当選逃す・都議選

任期満了に伴う東京都議選(定数127)は22日、投開票された。自民党の獲得議席は過去最低だった2017年の23を下回る21にとどまり惨敗した。小池百合子知事が特別顧問を務める地域政党「都民ファーストの会」が31で、第1党を奪還した。都民ファと自民に公明党を加えた「知事与党」では過半数を確保した。立憲民主党は議席を伸ばした。
国民民主党と参政党が初めての議席を獲得。公明は9回連続の全員当選を逃した。7月に行われる参院選の前哨戦として、各党は国政選挙並みの態勢で臨んだ。惨敗した自民は参院選に不安を残した。投票率は47.59%で、前回(42.39%)を上回った。
都民ファ、自民を除く党派別当選者は、公明19人、立民17人、共産党14人、国民民主9人、参政3人、地域政党「東京・生活者ネットワーク」1人、無所属12人。
今回の都議選では、42選挙区で平成以降最多の295人が立候補した。自民は42人(現有議席30)を擁立。会派裏金問題などで非公認とした7人が無所属で出馬し、当選した3人を追加公認した。都民ファは37人(同26)を公認。他に同じ会派の現職1人が無所属で立候補し、当選した。公明は22人(同23)を公認した。
共産は24人(同19)を、立民は20人(同12)を擁立した。この他に、日本維新の会が6人(同1)、生活者ネットが3人(同1)を公認。都議会に議席のない主な党派は、国民民主18人、れいわ新選組3人、参政4人、日本保守党1人、社民党1人、石丸伸二氏が率いる地域政党「再生の道」42人。
選挙戦では、物価高対策や自民会派の裏金事件を受けた「政治とカネ」の問題を中心に論戦が交わされた。今回の都議選は、選挙ポスターの品位保持規定を盛り込んだ改正公職選挙法の施行後初めての大型選挙となった。 [時事通信社]

都議選で42人擁立、再生の道の石丸伸二代表「全体の評価として期待通りだった」

再生の道の石丸伸二代表は22日夜、東京都港区で記者会見し、42人の候補を立てた都議選について「候補者の選挙活動は千差万別、ただ、全体の評価として期待通りだった」と振り返った。
会見の中で石丸氏は、「国民の意識が変わるのはそんなに簡単なことではないととらえている」とし、「総体としてはこんなにも政治が、選挙ができる人がいるんだなと、それが実現したことに衝撃を覚えました」と話した。
7月の参院選については「都議選を参院選の前哨戦などというとらえ方はしていない。再生の道としては、議員としてちゃんと仕事ができる人を議会に送り込む。早く始まらないかなと、個人的にはその思い」と笑顔で話していた。
読売新聞の集計によると、午後10時現在で再生の道は議席を獲得していない。

都議選に18人擁立した国民民主、9議席を獲得…練馬区で初当選の山口花さん「都政に新しい風を」

東京都議選は22日、投開票が行われた。都議会で初の議席を獲得した国民民主党の開票センター(千代田区)では、党関係者らがテレビでニュースを見つめた。礒崎哲史・都連会長は午後8時40分頃、NHKの報道番組で「各党とも等距離で、何よりも皆さんの生活を豊かにして、社会の問題を解決することを重視している。都政も同じ姿勢で臨む」と語った。
国民民主は初めて挑んだ2021年前回選に立候補した4人全員が落選。今回選では好調な党勢を背景に18人を擁立し、「都民の手取りを増やす」を公約に掲げた。18歳以下の都民への給付事業の増額や固定資産税の軽減などを訴え、計9議席を得た。
練馬区(定数7)で初当選を決めた国民民主の新人の山口花さん(28)は、玉木雄一郎代表の元秘書で「現役世代の声を代弁できた。都政に新しい風を吹き込みたい」と力を込めた。

戦後80年の「沖縄慰霊の日」 追悼式に玉城知事や石破首相ら参列へ

沖縄は23日、1945年の第二次世界大戦末期の沖縄戦などで犠牲になった人を悼む「慰霊の日」を迎えた。
住民を巻き込み、約20万人が犠牲になった日米両軍の凄惨(せいさん)な地上戦から今年で80年がたった。23日は最後の激戦地となった沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園で、県と県議会主催の沖縄全戦没者追悼式が営まれ、玉城デニー知事や石破茂首相らが参列する。
沖縄戦では45年3月26日に米軍が沖縄本島西側の慶良間(けらま)諸島に、4月1日に本島中部に上陸。6月23日(22日説も)に日本軍の司令官が自決して組織的戦闘が終わるまで地上戦が約3カ月間続いた。
「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の激しい砲爆撃が加えられ、住民は狭い島の中を逃げ惑った。家族の中で互いを手にかけ合った「集団自決」のほか、日本軍による住民のスパイ視や殺害、壕(ごう)からの追い出し、食料の強奪なども起きた。
住民9万4000人(推計)が犠牲になったほか、学徒隊や防衛隊などとして動員されて命を落とした人々も多く、県民の4人に1人が死亡したとされる。
今年5月には自民党の西田昌司参院議員が那覇市での講演で、かつて見たという「ひめゆりの塔」(沖縄県糸満市)での展示内容について「歴史を書き換えている」という趣旨の発言をした。
これに対し、沖縄県議会は「沖縄戦の実相をゆがめ、戦没者や戦争体験者を冒(ぼうとく)し、県民の尊厳を踏みにじるものだ」として抗議決議を可決するなど各地で批判の声が上がった。
さらに、沖縄では米兵による性的暴行事件が相次ぎ、全国の米軍専用施設面積の7割が集中するという重い基地負担の問題も改めて浮き彫りになっている。
23日の追悼式では玉城知事が「平和宣言」を読み上げ、石破首相があいさつする。こうした問題にどのように言及するのかが注目される。
追悼式には県の招待を受け、国連の中満泉事務次長(軍縮担当上級代表)や昨年のノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の田中重光代表委員も初めて参列する。【比嘉洋】

自民が大敗、都民ファ第1党 裏金影響、参院選前哨戦の都議選

参院選の前哨戦となる東京都議選(定数127)が22日、投開票された。自民党は都議会会派の裏金事件で非公認の当選者らを含めても、過去最低だった2017年の23議席を下回り大敗した。小池百合子知事が特別顧問を務める地域政党「都民ファーストの会」が自民から第1党を奪還した。「政治とカネ」の問題に対する有権者の目は厳しく、参院選への影響は必至だ。国民民主党と参政党は初の議席を獲得した。立憲民主党は選挙前勢力を上回った。女性の当選者数は48人で過去最多。
公明は9回連続の全員当選を逃した。石丸伸二・前広島県安芸高田市長が代表の地域政党「再生の道」と日本維新の会は全員落選した。
各党の獲得議席は都民ファが会派から無所属で出馬した1を含め32(選挙前勢力26)、自民が裏金事件などで非公認の4を含め22(同30)、公明19(同23)、立民17(同12)、共産14(同19)、国民9、参政3、地域政党「東京・生活者ネットワーク」1(同1)、無所属10。
都選挙管理委員会によると、投票率は47.59%で、前回より5.20ポイント高かった。

特攻兵に「ヒロポン」注射 新潟の元軍医、晩年も後悔

太平洋戦争末期、日本軍は爆弾を積んだ戦闘機で敵の艦船に突撃を試み、多くの若者が犠牲になった。特攻隊員は、ヒロポン(覚醒剤)を打って基地を飛び立った。新潟市の元海軍軍医蒲原宏さん=3月に101歳で死去=は、覚醒剤と知らずに約200人に注射し続けた。生前の取材に「とんでもないことをした」と語り、晩年まで後悔の念は消えなかった。
1941年、新潟医科大(現新潟大医学部)に入学。講義打ち切り後、軍医学校で学び、45年2月、鹿児島県の海軍航空隊串良基地に配属された。
同年3月の沖縄戦開始後、戦況が悪化する中、上官に「目が覚める薬」と言われ、特攻隊員への注射を指示された。長さ約3センチの茶色いアンプルに入った透明の液体が何か分からなかったが、指示通り敗戦まで打ち続けた。
特攻直前の隊員は、無口で目がぎょろぎょろしていた。死を覚悟し、諦めたようだった。「軍医さんはいいですね。死ななくていいんだもん」と言われたこともあった。前線に出ない蒲原さんは、返す言葉がなかった。

「どうして皆死んだのか」 斬り込み、生き埋め…つづった友の最期

第二次世界大戦末期、沖縄は日米両軍の地上戦の場となった。沖縄県立水産学校(現・県立沖縄水産高校)の1、2年生21人は「通信隊」として戦場に動員され、うち20人が命を落とした。
「どうして私一人を残して死んだのか」。生き残った元学徒は戦後、悲痛な思いとともに学友たちの最期を書き残した。しかし、その元学徒も12年前に他界し、少年たちの悲劇が語られることは今はほとんどない。
水産学校は那覇港のすぐそばにあり、主に14~17歳の学生が漁業や操船の技術などを学んだ。乗船実習が授業の要だったが、沖縄に戦火が迫ると、実習船は日本軍のものとなり、学生は軍の陣地構築や飛行場建設に駆り出された。
同校出身の安次富(あしとみ)長健さん(97)=那覇市=は「航海士になりたかったが、学校では戦の話ばかりだった」と振り返る。
1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸し、激しい地上戦となった。
日本軍は兵力不足を補うため、県内に21あった旧制中等学校や師範学校などから男女約2000人の学生を動員し、物資の運搬や負傷兵の看護などにあたらせた。
水産学校では上級生が「鉄血勤皇隊」、下級生が「通信隊」として編成され、通信隊21人は日本軍第32軍の司令部があった首里城地下の壕(ごう)に配属された。司令部が45年5月下旬に本島南部の摩文仁(まぶに)(現・同県糸満市)へ撤退すると、通信隊も同行した。
16歳だった瀬底正賢(せそこせいけん)さんも通信隊の一員だった。生き残り、学友たちが次々と死んでいった経過を戦後、手記に残していた。
摩文仁では学徒たちも戦闘に駆り出され、手投げ弾を手に「斬り込み」に出るなどして命を落とした。命令を受け、軍の参謀を沖縄から脱出させるために小舟で海に出てそのまま行方知れずになった学徒もいた。
瀬底さんも摩文仁の司令部壕にいた時に、米軍から爆雷を投げ入れられ、生き埋めになった。かろうじてはい出すと、周りは学徒と兵士の「死の山」だった。壕の奥にいた第32軍の牛島満司令官に、壕入り口の守備隊が全滅したことを報告した。
牛島司令官らの自決で45年6月下旬に日本軍の組織的戦闘は終わった。
瀬底さんが日本兵らとともに米軍に投降したのは10月。通信隊の生き残りはもう一人いたが、その月に収容所で亡くなったという。
「どうして皆死んでいったか」「当時のことも語りたい」。瀬底さんは手記で、学友たちに訴えかけるようにつづる。
終戦の2年後、学友の遺骨を掘り起こして遺族に届けたときのことを「母親はただ泣き叫び、(私は)十分な話もできず、その場を去った。初めて、生きてきたことが心を痛めた」と書き残している。
戦後、瀬底さんは同県与那原町で暮らし、船の機関士や給油所の所長などをしながら、子ども3人を育てた。
長女の岡本悠子さん(67)=同県名護市=によると、瀬底さんの体には戦争の傷痕があちこちにあったが、体験を話したことはほとんどなかった。
一方で、岡本さんは親族らからこんな話を聞いた。父が学友たちの遺骨捜しを続けていたこと、「友人が呼んでいる」と言って海の方にふらふらと歩いていくのを見たこと。
岡本さんは「生き残った罪悪感を一人で抱え込んで苦しんでいたのだろう」と思う。
ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)の普天間朝佳(ちょうけい)館長(65)は瀬底さんの姿を覚えている。その印象は少し異なる。
同館は99年、特別展「沖縄戦の全学徒たち」を催した。期間中、各校の元学徒が持ち回りで体験を話した。「瀬底さんも会場に来て、非常に力強く体験を語ってくれたのが印象的だった」
沖縄戦で動員されて亡くなった学徒は合計で1000人近くに上る。100人以上の犠牲者が出た学校もあり、水産学校の動員学徒に光が当たる機会は少ない。99年の展示を企画した普天間さんはこう振り返る。「水産学校など数校は資料が少なく、全ての実像は浮き彫りにできなかった」。
瀬底さんは2013年、84歳でこの世を去った。
「戦争の恐ろしさ、平和の尊さを伝えることが戦争で生き残った者の義務」「記録を残すことが戦死した20名の学友の供養になる」。95年に発行された沖縄水産高校の創立90周年記念誌に寄せた体験談で瀬底さんはつづっている。
長女の岡本さんは言う。「少しでも水産学校のことが伝われば、父も喜ぶと思う」
【喜屋武真之介】