「お父さんが死んじゃった」家族が失踪…その時“残された側”にできることとは「捜索願を出しても、警察はなにもしてくれない」《年間の行方不明者は約9万人》

「失踪」── ゲームのように人生をリセットする方法の一つかもしれない。これまでの縁を切り、知らない場所で、知らない人たちと、新しい人生を送る。一方で、縁を切られた側の思いは複雑だ。
風俗嬢として働く女性・緒月月緒さん(仮名)は、金遣いの荒い母に苦しめられて経済的に困窮し、18歳になった翌日から夜の世界へ飛び込んだ。血の繋がっていない父の失踪は、その仕事が板についてきた矢先のことだった。父は何を思って、どこに失踪したのか。
フリー編集者&ライターとして活躍する松本祐貴氏の著書『ルポ失踪 逃げた人間はどのような人生を送っているのか?』(星海社)から一部抜粋して再構成。【全2回の第1回】 * * *
27歳の時に父が失踪
月緒が27歳のとき、父がいなくなった。
その日付もわかっている。3月4日に会社の寮から夜逃げをして、失踪したのだ。月緒が母から父の失踪を知らされたのは、4月になってからだった。
それ以前から月緒は「お父さんの様子がおかしい。絶対にうつ病だよ」と母に兆候を伝えていた。
例えば、毎年大晦日とお正月は離婚した父も含む家族みんなで過ごしていた。しかし、その年の父は年を越す前に会社の寮へ帰ってしまった。 父の仕事はトレーラーの運転手。年をとって、給料も下がってきていた。いなくなる前日にも異変があった。プロドライバーである父が運転中にコーヒーにむせて壁に激突した。幸い人身事故ではなく、会社は「長年働いているので、責任は問わない。定年までいてほしい」と温情をみせてくれた。この事故とそれまでのうつ傾向が、失踪への契機となったのかもしれない。
月緒に突然「10代のとき専門学校に行かせられなくてごめん」と謝ってきたこともあった。父の意固地な性格を知る月緒はいぶかしがった。そのときに父は「生まれ変わったら鳥になりたい」などとも口走っていた。
「あの人がうつだなんて信じられない」
母はそうこぼすだけだった。月緒は仕事のお客さんでうつの人を見慣れていた。父はその状態に近かった。
すでに4人いた子どもたちも成人し、父は養育費を渡す必要はなかった。母は「あと数年経っておだやかな気持ちならまた一緒に住んでもいい」とまで言っていた。そんな状況下での突然の失踪だった。
母は警察に捜索願を出した。
見つかった時、父の所持金は32円だった
失踪者の家族はどんな状況に置かれるのか。
「年間、数万人がいなくなるんですよね。その中にお父さんも入っていたんです」

高市内閣「支持率80%超え」の陰で──“後ろから鉄砲”石破茂と側近たちの「失敗の本質」と「だらしない政治」への国民の審判

先月発足した高市内閣が異例の高支持率にわいている。報道各社の世論調査で概ね7割前後、なかには8割を超すものもある。一時は「知性的」「改革派」とも呼ばれた石破政権だったが、その失敗の本質はどこにあったのか?
【画像】会場はガラガラ…総理退任直前に行われた、国連総会での石破氏の演説模様
国民に対する姿勢の「だらしなさ」こそが、彼らを敗北へと導いた
高市内閣が異例の高支持率にわいている。勝者の高らかな凱歌の陰で、敗北の苦汁をなめる者たちがいる。その筆頭が、総理の座にしがみつきながら、自民党員から見放された石破茂前首相である。
そして、石破政権で中枢を担っていた側近、平将明氏と木原誠二氏。この三人の政治家の凋落は、単なる権力闘争の帰結ではない。それは、彼らが掲げた政策の底の浅さ、国民を欺く姿勢、そして政治家としての本質の欠如が招いた、必然の結末であった。
かつて石破内閣が発足した際、閣僚写真で見せたズボンのだぶつきを、世間は「だらし内閣」と揶揄した。しかし、問題の本質は服装のだらしなさにあるのではない。思想の、政策の、そして国民に対する姿勢の「だらしなさ」こそが、彼らを敗北へと導いたのである。
本稿では、石破氏、平氏、木原氏の三名に焦点を当て、その失敗の本質を冷徹に解剖していく。これは彼らへの鎮魂歌であり、同時に、日本の政治が二度と同じ過ちを繰り返さないための、痛烈な警鐘でもある。
石破氏は本当に「知性的」「政策通」だったのか
石破茂という政治家は、常に「知性的」「政策通」というイメージを纏ってきた。しかし、そのメッキは、いとも容易く剥がれ落ちる。最近で象徴的だったのが、戦後80年談話で披露した、その驚くべき歴史認識の浅薄さである。
石破茂は、リベラルなポーズを取り繕うかのように、政治学者・丸山眞男を引用し、「元老院のおかげで軍事の暴走が止められた」と主張した。一見、知的な響きを持つこの発言は、しかし、歴史的事実を致命的に誤解した、空虚な言葉の戯れに過ぎなかった。
丸山眞男が論じたのは、明治期において元老院が一定の軍事コントロール機能を果たしたという点である。昭和初期、日本を破滅へと導いた満州事変以降の軍部の暴走は、元老院の衰退が直接の原因なのではなく、政党政治の機能不全や統帥権の独立など、国家システム全体の構造的欠陥に根差している。
カネを配れば地域が活性化するという発想
この一件が暴き出したのは、石破氏の知識が、深い思索や哲学に裏打ちされたものではなく、単なる引用と受け売りの寄せ集めであるという事実だ。歴史を、自身の「知性」を演出するための小道具としてしか見ていない。
それは政策面においても一貫している。石破氏は、またしても地方創生などと言って、補助金をばらまいた。カネを配れば地域が活性化するという発想自体が、地方が抱える構造的な問題を全く理解していない証左である。
理念なき資金投下は、単なる富の再分配ゲームに堕し、納税者の汗の結晶を無に帰すだけである。
大阪・関西万博における石破氏の振る舞いもまた、空虚であった。公式キャラクターのミャクミャクを抱え、「楽しい日本」などと空疎な言葉を繰り返した。しかし、石破茂自身が万博の成功に具体的に何を貢献したというのか。その姿は、中身のない政策を覆い隠すための、象徴的パフォーマンスに終始した。
平将明氏がその主張を裏付ける物的証拠を示すことは、ついになかった
石破氏の側近としてデジタル大臣の重責を担った平氏は、その職責とは裏腹に、デジタル社会と自由な言論空間への冒涜者として歴史に名を刻むことになった。
それは、自身の理解を超える複雑な事象に直面した際、熟慮や分析を放棄し、安易な「陰謀論」に逃げ込んだことにある。権力者として最も恥ずべき知的怠慢であった。
時事通信の報じるところでは、<平将明デジタル相も閣議後の記者会見で、「外国においては、他国から介入される事例なども見て取れる。今回の参議院選挙も一部そういう報告もある」と述べ、注意深く見守る姿勢を示した>という。
選挙という民主主義の根幹を揺るがす重大な指摘である。しかし、平氏がその主張を裏付ける物的証拠を示すことは、ついになかった。何の根拠もなく自分たちへの批判に「外国の陰謀」というレッテルを貼り、言論を封殺しようとする、極めて危険な試みであった。
根拠の薄い介入仮説に依拠した姿勢
客観的な分析は、平氏の主張がいかに杜撰なものであったかを物語っている。
東京大学の鳥海不二夫教授は、Yahoo!ニュース(2025年7月16日)に寄せた分析で、特定のニュースサイト関連アカウントのフォロワーに、ロシア政府系メディア「Sputnik」の情報を拡散する層が多いことをデータで示した。これは事実である。
しかし、鳥海教授は、このデータから「ロシア製ボットが参政党と深い関係にある」と結論付けることは飛躍であり、陰謀論的な過大評価であると明確に釘を刺している。冷静な専門家の分析を称賛したい。平氏は、この科学的な態度を爪の垢ほどでも煎じて飲むべきであった。
平氏の行動は、気に入らない意見を持つ級友を「あいつはスパイだ」と叫んで排斥しようとする「こどもの論理」だ。複雑な現実を理解する努力を怠り、全ての原因を単純な敵の存在に求める。権力者がこの陰謀論という麻薬に溺れるとき、社会の分断は決定的なものとなり、自由な議論の土壌は完全に破壊される。
「現金2万円給付」の木原誠二氏
そして、石破派のブレーンと目され、岸田政権から石破政権に至るまで権力の中枢にあり続けた木原誠二氏。その本質は、国家の百年を見据える経世家ではなく、目先の選挙と政権維持のためだけに知恵を絞る、小手先の策士といえないか。

木原誠二氏の政策には、経済合理性というものが存在しない。あるのはただ、「いかに国民の不満を一時的に逸らし、政権を延命させるか」という、冷徹な政治工学だけである。
その典型が、岸田文雄元首相の「増税メガネ」という不名誉なあだ名への対応として推進した、4万円の定額減税であった。
この政策は、多くの専門家やメディアから「手間ばかりかかり、経済効果は薄い無意味な減税」と酷評された。経済を良くするための手術ではなく、国民の怒りという痛みをごまかすための一時的な鎮痛剤ともいえる。
高市政権によって当然の如く葬られた「現金2万円給付」。週刊文春(2025年6月19日)が「自民党が突如、7月の参院選公約に、全国民に1人当たり2万円の給付金を配るとぶちあげた。野党がこぞって打ち出した消費減税への対抗策だが、このプランを考えたのは自民党の木原誠二選対委員長(55)だった」と報じた。
国民はもはや、空疎な言葉や小手先の政策には騙されない
木原氏は国民にアメを配る政策の立案に長けている。しかし、それは国民を賢明なパートナーとしてではなく、容易に操作できる愚かな大衆と見なしているからこそ可能な芸当である。
国民は、目先の現金給付よりも、持続可能な社会保障や安定した経済成長を望んでいる。この根本的な願いを理解せず、騙し討ちのようなトリックを弄する政治家は、国民からの信頼を永遠に失う。
この状況は単なる権力闘争の敗北ではない。「政策の浅さと失敗の本質」が、国民に見透かされたからである。
石破氏が弄した歴史からの引用は、深い洞察を欠いた浅はかな屁理屈に過ぎなかった。平氏が見せた言論統制への欲望は、民主主義の根幹を揺るがす自由への敵意そのものであった。そして木原誠二氏が主導した付け焼き刃のバラマキで日本経済はどん底寸前に追いやることになる。
彼らの退場は、日本の政治がようやく、この致命的な病から回復するための一歩を踏み出したことを意味しているのかもしれない。この苦い教訓を、我々は決して忘れてはならない。
国民はもはや、空疎な言葉や小手先の政策には騙されない。その冷徹な視線は、次なる指導者が、確固たる哲学と誠実さを持っているか否かを、静かに、そして厳しく見定めている。
文/小倉健一

昭和天皇をパチンコ玉で撃った元日本兵――奥崎謙三はなぜ「天皇制」を攻撃対象としたのか?

〈「8月15日に靖国神社で花束からドスを抜いて…」奥崎謙三が構想していた『ゆきゆきて、神軍』幻のシーン〉から続く
戦時中、極限状態のジャングルを生き抜き、のちに昭和天皇をパチンコで撃った元日本兵――奥崎謙三の破天荒な言動を追った『ゆきゆきて、神軍』は、今なお日本のドキュメンタリー映画の最高傑作と名高い。同作のメガホンをとった映画監督の原一男と、元刑務官で作家の坂本敏夫が、再び奥崎を語り尽くした。
【画像】昭和天皇をパチンコ玉で撃った元日本兵・奥崎謙三
昭和天皇をパチンコ玉で撃った男
『ゆきゆきて、神軍』(今村昌平企画、原一男監督)は、1987年に公開されたドキュメンタリー映画。太平洋戦争の飢餓地獄、ニューギニア戦線で生き残り、自らを人間の作った法と刑を恐れずに行動する「神軍平等兵」と称して、慰霊と戦争責任の追及を続けた奥崎謙三の破天荒な言動を追う名作だ。
奥崎は第二次大戦中、日本軍の独立工兵隊第36連隊の一兵士として、激戦地ニューギニアへ派遣されていた。ジャングルの極限状態で生き残ったのは、同部隊約1300人中、わずか100名ほど。
その後は1956年、店舗の賃貸借をめぐる金銭トラブルから悪徳不動産業者を刺殺し、傷害致死罪で懲役10年。1969年、皇居の一般参賀で昭和天皇にパチンコ玉を発射し、懲役1年6か月。
1972年、ポルノ写真に天皇一家の顔写真をコラージュしたビラを約3,000枚をまき、懲役1年2か月。1981年、田中角栄殺人予備罪で逮捕、不起訴。1987年、殺人未遂等で懲役12年の判決……と、一貫して天皇の戦争責任を訴え、2005年に亡くなるまで希代のアナーキストとして活動した。
今年は今年は戦後80年でもあり、奥崎謙三氏について直接本人を知る原一男さんと坂本敏夫さんにその人物をあらためて語ってもらうことで戦後の検証に近づけようと思います。
坂本さんは、奥崎さんが不動産商業者障害致死事件で大阪刑務所に初犯で入っていたときに刑務官として、原さんはその後、奥崎さんが「皇居一般参賀でのパチンコ発射事件(1969年)」、「銀座・渋谷・新宿などでの皇室ポルノビラ配布事件(1976年)」を起こして前科三犯となり、出所後にその過激な活動をドキュメンタリー監督として追うことで、それぞれに濃密な接点があったわけです。
以前も聞きましたが、そもそも坂本さんが刑務官になるきっかけというのも奥崎さんであったということでしたね。
坂本 父は戦時中、出征先の沖縄戦で重傷を負い、終戦後米軍の野戦病院に6ヵ月入院、昭和21年3月に退院し復員。母が身を寄せていた熊本の実家に帰り、熊本病院に5ヵ月余り再入院の後、退院し熊本刑務所の刑務官として採用されました。当時の刑務所長に将来を嘱望された父は幹部の道を進みます。
10年弱の現場経験を経て、法務省矯正局に異動し、1963年12月暴力団抗争(所謂「仁義なき戦い」と言われている抗争)の余波を受けて、規律秩序が紊乱した広島拘置所の立て直しという法務大臣の特命により所長として赴任します。
広島拘置所を立て直した父は1966年4月、日本一の特大施設・大阪刑務所の管理部長として赴任しました。管理部長というポストは受刑者処遇と刑務作業を統括するナンバー2ポストです。
ちょうどその年は、監獄法に関する省令が革命的に改正され、受刑者の人権が大幅に保障されました。受刑者の人権意識の高まりによって受刑者からの所長面接願いが多数提出されていました。父は大阪刑務所でも指折りの処遇困難者(クレーマーなど)の面接を一手に引き受けました。
そのうちの一人が奥﨑さんだったのです。面接時間は通常の数倍、回数も複数回だったと、私が刑務官になってから関係職員にききました。
おそらく、奥﨑さんからは彼の体験した驚愕する戦争体験を聴き、父も筆舌に尽くしがたい、生きるために封印していた沖縄での悲惨な体験を思い出したのでしょう。今でいうPTSDが発症してしまうんです。それで心を病んで入院するのですが、6階の病室から飛び降りて自死してしまう。
その後、父の同僚に東京の大学生だった私が呼び戻されて、私が父の後を継いで刑務官になれば、官舎にいるお前の母や弟もそのままでいられるというので、私は刑務官試験を受けて合格したわけです。
職務に就いて驚いたんですが、奥崎が刑務官で唯一話ができるのは私の親父だったと言っていたそうなんです。
ある日、奥﨑さんが独居生活で世話になったという刑務官Aさんを訪ねてきました。そのAさんが、私の官舎にやって来て、「奥﨑謙三があんたに会いたがっている。管理部長の息子が刑務官になったと聞いて、どうしても会いたいと会いに来た」というのです。
それで私がAさんの官舎に行くと、奥﨑さんは満面の笑みで私を迎えてくれました。
奥崎謙三の影響力
原 お父さんが沖縄に派兵されたのはいつごろですか?
坂本 1944年4月2日です。父は1941年3月早稲田大学を卒業し翌年2月に招集があり輜重兵として第37連隊に入隊を命ぜられました。門司港から釜山港に渡り山西省に展開していた部隊に着隊、以後幹部候補生として教育に臨み43年4月原隊に曹長として復帰しました。
12月少尉に昇進。44年3月独立歩兵第14大隊に転属し上海を出港しました。着いたのは沖縄県那覇港。ここで、沖縄戦守備隊の先遣隊員として上陸したことを知ります。
以後、7月から9月にかけて大量動員される沖縄守備隊本隊【沖縄本島(第九師団、二四師団、第六二師団)、宮古島(第二八師団、独立混成六〇旅団、同五九旅団)、石垣島(独立混成第四五旅団)、大東島(歩兵第三六連隊)】の受け入れ準備に奔走しました。
開戦後は本隊に所属し一般住民と共に最後の激戦地となる魔文仁の丘まで追い詰められ、そこで敵弾に倒れ重傷を負いました。復員したのは46年3月です。したがって父は住民を巻き込んだ沖縄戦の悲劇全てを目に焼き付けていたのです」
原 沖縄で米軍上陸を迎え撃って、摩文仁の丘での戦いをされたということですから、本当に厳しい戦争体験をされたんでしょうね。
奥崎さんもニューギニアのジャングルの中で泥にまみれ、飢餓や銃撃とも戦ってきたわけですから、お互い感じ合うものが多かったんでしょうね。お父さんが奥崎さんと出逢ってから亡くなるまでの時間はどれぐらいあるんですか?
坂本 1966年4月1日、父は大阪刑務所の管理部長として赴任しました。着任早々は受刑者と面接する時間はありません。余裕ができるのは早くても3ヵ月後ですね。
したがって面接したのは6月中旬だと思います。母の話では6月半ばから不眠が続いていたとのことです。大阪労災病院に入院したのは7月に入ってすぐでした。死亡(自死)したのは8月10日ですから2ヵ月弱です」
原 自死された原因はそれだけではなかったかもしれませんが、ニューギニアと沖縄、お互いの戦争についての話をされる中で、奥崎さんが発した言葉からかなり大きなインパクトを受けたということでしょうか。
立場は受刑者と刑務官でありながら、部下を死なせてしまったという思いを封印していた元軍人に対して大きな影響力を持っていたのは事実ですね。お父さんと奥崎さんは天皇についても話し合われていたんでしょうか。
坂本 父は法務本省で11年余り要職についた経験があります。当時、上司から中央官庁につとめる役人は保守政党の支持でなければ問題だ! と言われたそうですが、父の社会党支持は揺るぎませんでした。
悲惨な戦争体験があったから野党への思いが強かったのだと思います。奥﨑さんと昭和天皇の話し合いをしたこというご質問ですが、父は天皇制に対する意見を述べたのではないかと思います。
ただ、ニューギニアと沖縄戦の体験談は盛り上がったのでしょう。第3区事務所内の調査室での面接は一般的には、せいぜい30分のところ父との面接は4時間にも及んだというのですから、波長がぴったり合ったのだと思います。
原 奥崎さんには、ひとつの行動パターンがあってね。自分のことを認めてくれる人、自分のことを評価してくれる人にはその人のことも評価してすごく丁重に付き合うんです。それは一貫してそうだった。
だから刑務官の中にもいろんな人がいるんでしょうけども、きっとお父さんとは、認め合われたんでしょうね。
独居房で醸成した思想
奥崎さんが「国家は人間を阻害断絶するもの」「権力に対する服従は神に対する犯行である」「天皇と天皇的なるものを根絶した理想社会の実現」などのアジテーションを日常的にするようになったのは、妻のシズミさんによれば、初犯の大阪刑務所で10年の懲役刑をくらって独居房に入れられてからだったそうです。
それまでは口数の少ない人間だったとのことで、その意味では奥崎さんにとって刑務所体験というのが非常に大きかったということですね。
坂本 大阪刑務所で奥崎さんは、最初4 区という初犯で長期囚が入る区にいたんですが、問題を起こし続けて3区に移動させられるんです。4区には独居房がないんです。なので独居房のある 3 区へ行くのですが、ここはいわゆるヤクザ者、反社の人間が多いのです。
奥崎さんはそこでも他の受刑者と問題を起こし続けて案の定、独居房に入れられて『大阪刑務所で5指に入る処遇困難者』になるわけです。彼からすると、自分は人類の恒久平和のために活動している。他の受刑者と違うんだという強烈なプライドがあったわけですね。
原 奥崎さんが大阪刑務所に入った頃は、天皇の戦争責任を追及していくという思想性はまだ完全に確立していなかったと私は解釈してるんです。彼の著作に書いてあったんですが、思想における大きなきっかけで言うと、雑居房かどこかの便所で、他の受刑者と一緒に並んで小便をしていたそうなんです。
そのときに隣にいたのが、若いあんちゃんで、そいつが天皇陛下のことを天ちゃんと言ったそうなんです。それで衝撃を受けるんですね。俺たちが戦時中に現人神、神様と教えられてきた天皇がこんな若造に天ちゃんと呼ばれていると。
そうかそれで良いのだと、そこからかつての価値観が崩れていって、独房で沈思黙考の末、あの思想に繋がっていった。人間的な革命を刑務所の中でというふうに聞いています。
坂本 時系列で言えば、そこは符合していますね。奥崎さんは、懲役10年の6年目くらいから独居房でしたから。
「ヤマザキ、天皇を撃て!」と死んだ戦友の名を叫びながら
奥崎の母親は息子に対して「お前は良くしてくれた人に対しては良く返すが、悪くしてきた人には悪くする」と言っていたという。獄中の中での思索の末、最も自分に対して悪いことをしたのは誰か? それは天皇だという考えにたどり着く。
天皇の名によって行われた戦争で、奥崎が所属したニューギニアの独立工兵第36連隊は、隊員千数百人の内、生還できたのは捕虜になった奥崎と「ゆきゆきて神軍」にも登場する山田吉太郎元軍曹を含めごく少数だけだった。
奥崎は「無知、無理、無責任のシンボルであるヒロヒトを許せない」として1968年8月に出所後、翌1969年1月2日の一般参賀で天皇に向かって「ヤマザキ、天皇を撃て!」と死んだ戦友の名を叫びながらパチンコを発射する。
この事件の一報を聞いたとき坂本さんはどう思われましたか。当時は刑務官になられて二年目でしょうか。
坂本 やはりやったかと思いましたね。大阪刑務所では、5指に入る処遇困難者。それは刑罰を怖れず、独居房にいても自分が正しいと思ったこと、やりたいことをやり続けて来たからで、仮釈放も恩赦も考えていない。国に借りは作りたくないという彼の意志が出ていましたから、出所したら、一番やりたいことをするだろうと思っていました。
原 奥崎さんの手記の中で、自分が殺すべきは不動産屋さんではなくて、天皇だったと気づいたという記述が確か出てくる。それから少しずつ理論武装していくんですが、天皇個人を殺してもまた次の天皇が出てくる、それじゃ何も変わらない――天皇システムこそが、自分にとってターゲットだっていうようにだんだん思想形成されてくる。それから出所してすぐに山田吉太郎さんを訪ねているんです。
山田さんは、独立工兵36連隊にいた戦友で熱帯ジャングルの中を木の根をかじって生き抜き、戦後は単身で国家に喧嘩を売る奥崎謙三とは対照的な生き方をされた。家族を大事にしながら、ニューギニアでの体験を書き残して戦争について考えてきた人です。
しかし、奥崎さんは病床にある山田を見舞った際に、あなたが病気になったのは、戦後に穏健な一般市民のような生活をしたことで、それが間違っていたので天罰が下っているのだとなじる。
原 そう。奥崎さんは同じ連隊にいてあの地獄の中で生き残った山田さんは信頼できる人物だと思っていたんだね。そして昭和44年の元旦に山田さんに会いに行って、「自分は明日、天皇にパチンコを打つ、そのために今神戸から上京してきたんだ」と打ち明けてるんだよね。
その時も山田さんは、「奥崎さん、そういうやり方は良くない、もっと違うやり方がある。自分は違うやり方で亡くなった仲間の慰霊をやっている」と諫めたそうなんだ。奥崎さんは山田さんだけに決意を打ち明けて 2 日に皇居に行ったんです。
出所直後からのそういった歴史を聞くとあの映画の2人の対立のシーンというのはまた深い象徴的な意味を感じますね。
(ラストで奥崎と山田は互いの戦後の生き方について激しい論争を展開する。ニューギニアで飢餓に悩まされる中、部下を殺して人肉を食べたのではないかという疑惑が持ち上がり、何があったのか、真実を話せという奥崎に対し、山田が「ニューギニアで亡くなった人は家族にも聞かせられない死に方をしている、自分は自分なりのやり方で友を慰霊し平和を願って来た。それぞれのやり方があるではないか」と返すと、奥崎は激高して山田を押し倒し、革靴で蹴る。奥崎は暴力を振るったことを謝罪をしながらもこれからも自分の判断で人類にとって良い結果が出る暴力ならば大いにふるうことを宣言する)
後編に続く
取材・構成/木村元彦
現在、『水俣曼荼羅Part2』(仮題)の制作中
新・原一男ホームページ https://www.harakazuo.com/posts/57120967/
新・原一男情報 @shin_kazuohara
新・原一男チャンネル https://youtube.com/@shinharakazuo?si=WCgbD429xvQKZyZO
〈『ゆきゆきて、神軍』奥崎謙三が構想していた、人類の幸福のための「奥崎教」の全貌とは 〉へ続く

地域食堂でパレスチナ料理振る舞う 料理通じて支援 熊本

2年あまり続いた戦闘の影響などで困窮する中東・パレスチナの人々を支援しようと、熊本市で2日開かれた「地域食堂」という催しで、現地の食材を使ったパレスチナ料理が振る舞われた。参加者らは伝統の味を通し、遠く離れた紛争地域の苦しみに心を寄せた。
市内で活動する生活支援団体「飽託文食(ほうたくぶんしょく)」は、食事や生活物資を無償提供する催しを2カ月に1度開いてきた。こども食堂のように対象を限定せず、誰でも参加できることから地域食堂と名付けている。
パレスチナでは、2023年10月からガザ地区でイスラム組織ハマスとイスラエルの激しい戦闘が続いた。もう一つのヨルダン川西岸地区でもイスラエルが軍事圧力を強めてきた。多くの住民が亡くなり、暮らしも脅かされる中、飽託文食では、少しでも支えになろうと、オリーブオイルなどの産品を購入して活動に使ってきた。
そして今回は初めて、パレスチナ料理の提供に挑戦した。現地の香辛料やハーブを使ったペースト状の豆料理「フムス」と「タッブーレサラダ」などで、スタッフらがレシピを基に調理。会場の黒髪地域コミュニティセンター(中央区)のテーブルに並べると、訪れた近隣住民らが次々と口に運んだ。
同区の40代の女性は「おいしいですね。家でも作ってみたい」と舌鼓。ガザ地区の惨状に心を痛めていたといい、「料理を知ることで、パレスチナのことをより身近に感じられた気がする。支援の輪が広がってほしい」と願っていた。
ガザ地区の戦闘は25年10月に停戦に入ったが、散発的な衝突が続き、街は既に破壊し尽くされている。飽託文食の代表、大坪あすかさんは「復興は容易ではなく、これからも支援を続けていく。熊本からでも、できることがあるという姿勢を発信していきたい」と話した。
次回の地域食堂は2月21日午前11時から同区の碩台地域コミュニティセンターで。運営資金の寄付や物資支援の申し出は大坪さん(080・5250・5897)へ。【中村敦茂】

玄関をあけたところ自宅前の市道を移動する体長1.5m熊…センサーライトが反応し確認 福島

玄関をあけたところ自宅前の市道を移動する熊を目撃したということで、警察が付近の住民などに警戒を呼びかけています。
熊が目撃されたのは喜多方市塩川町常世字蟹沢地内の市道上です。2日午後7時40分頃、住民が自宅の玄関の戸を開放したところ、設置されていたセンターライトが反応しました。すると、自宅前の市道上を移動する体長およそ1.5メートルの熊がいたということです。その後、熊の行方は分かっていません。人的被害などは確認されていませんが、警察が警戒を呼びかけています。

元徳島県知事の大田正氏が死去、82歳…社民党県連幹事長など歴任

元徳島県知事の大田正(おおた・ただし)氏が10月30日、病気で死去したことが家族への取材でわかった。82歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は長男、哲氏。
同県東祖谷山村(現・三好市)出身で、同県北島町議と県議をいずれも4期、社民党県連幹事長を務めた。県発注の公共工事を巡る汚職事件で逮捕・起訴された元知事の辞職に伴う2002年4月の知事選に立候補。「反自民」を掲げ、民主、共産、社民各党の推薦を受けて初当選した。
03年3月に県議会の不信任決議で失職。再選を目指して同年5月の知事選に出馬したが、飯泉嘉門前知事に敗れた。

「小さいクマでも絶対に勝てない」襲われた男性が語った“恐怖と異変”猛暑の影響でドングリが大凶作…被害者の大半が人里で襲撃

全国で相次いでいるクマ被害ですが、深刻なのは被害の多くが市街地で相次いでいることです。熊に襲われる人も相次ぎ、死者は過去最多となっています。クマはなぜ人を襲うのか、被害に遭った男性の証言から考えます。
クマによる死傷者過去最多 小学校のガラス破られ「臨時休校」も
2日朝、福島県内の住宅の敷地内で80代の男性がクマに襲われ、けがをしました。命に別状はないということです。
隣の家に住む人 「(男性は)頭部からも出血していて」
1日午後7時ごろ、札幌市内の住宅街にクマが現れました。
人を恐れず、生活圏内に入り込むクマ。
山形県・南陽市の小学校では、クマが玄関のドアに突進。ガラスが破られ、臨時休校となりました。
クマに襲われる人も相次いでいて、環境省によりますと、2025年4月以降、被害者の数は全国で100人を超え、死者は過去最多の12人に上っています。
実際に襲われると、どうなるのでしょうか。その様子を撮影した被害者がいます。
岩手県岩泉町に住む佐藤誠志さん(59)がクマに襲われたのは2023年9月、キノコ狩りの最中でした。
「九死に一生」を得た佐藤さんが語る、クマの“恐ろしさ”とは。
「あの時、木の棒がなかったら…」2年経った今も残る傷
クマに襲われた佐藤さんは木の棒で応戦しますが、クマは何度も飛びかかって攻撃してきました。
クマは運よく逃げていきましたが腕をかまれてけがをし、太ももを爪でえぐられました。2年経った今も傷の跡が残っています。
佐藤さん 「クマには、小さいクマでも絶対勝てない。もしあの時、木の棒がなかったら、顔はめちゃくちゃだったと思う。スイッチが入っているクマはどうしようもない。本当にやられるだけ、本当に怖い」
キノコ狩りなどを生業とする佐藤さん。
佐藤さん 「(クマから)パンチが来ても重傷にはならない」
山に入る際は必ず、フェイスガード付きのヘルメットをつけます。さらに…
佐藤さん 「(鈴が)わざと膝に当たるように」
クマよけの鈴2つに、警報音を出す装置。そして、撃退用のスプレーを携帯。
佐藤さん 「視界が悪いところに行ったら『はっ!』」
山の中では時折り声を出し、警戒しながら歩きます。
山で30年以上、仕事をする佐藤さん。2025年に感じた“ある異変”があります。
「山にどんぐりが見えない」どんぐりが「大凶作」で人里に…?
佐藤さん 「山に(クマのエサとなる)どんぐりが見えない。2024年は山を歩いているだけで、どんぐりが落ちてきた。2025年は1個もない」
林野庁の推計では、猛暑などが続いた2025年、東北の5つの県でクマの主食であるどんぐりが「大凶作」に。この影響からか、佐藤さんは「山でクマを見ない」と話します。
佐藤さん 「(クマの)足跡すらあまりない。(クマは)みんな里の方に行っている。腹減りすぎてる。本当に飢えていると思う」
秋田県のまとめでは、2025年、クマに襲われた56人のうち、大半の54人が「人里」で被害を受けています。
ドングリの「凶作年・豊作年」とクマ駆除数の関係
皆川玲奈キャスター: 2025年はクマのエサとなるドングリが「凶作」という予想がでていますが、グラフを見てみると、ドングリは「凶作」と「豊作」を繰り返しているように見えます。
そして、クマの駆除数は2000年以降、急激に増えているような動きとなっていますが、どう見ていますか?
森林総合研究所 主任研究員 岡輝樹さん: クマの駆除数の急激な変化は、おそらくブナの凶作・豊作が前後に大きく変動し始めたことと関連していると考えられます。
皆川キャスター: クマの出没が市街地で増えているということも全体的にわかりますが、これはどのように分析していますか?
森林総合研究所 主任研究員 岡輝樹さん: 2000年以降のクマの出没数をならしてみると、少しずつ右上がりになっていますが、これはおそらくツキノワグマの繁殖力が最初に想像していたよりも強く、どんどんと数が増えているのではないかと考えられます。
皆川キャスター: 今、クマの個体数がそもそも増えているような状況だということですね。
========== <プロフィール> 岡輝樹さん 森林総合研究所 多摩森林科学園 主任研究員 ツキノワグマによる人里域への出没頻度などを分析

近畿地方で木枯らし1号 北風が強まり冬の便りが到着

今日3日(月)文化の日の日本付近は一時的に西高東低・冬型の気圧配置となっています。

近畿では北寄りの風が強まり、大阪管区気象台は本日、木枯らし1号が吹いたと発表しました。昨年より4日早い発表です。
近畿の広い範囲で10m/s前後の強風に
今日の12時までの最大風速は、京都府京丹後市・間人(たいざ)で12.6m/s、大阪府田尻町・関西国際空港で12.5m/s、滋賀県彦根市で11.7m/sを観測しました。

近畿では滋賀県や京都府の北部で雨が降っています。中部や南部では局地的ににわか雨が降ってはいるものの、晴れている所が多くなっています。寒気が南下しているため晴れている割に気温は低く、15℃を少し上回る程度です。冷たい北風が加わることで体感温度は低下し、ウェザーニュースアプリ利用者からの体感報告は「肌寒い」や「寒い」が多く届いています。

午後も引き続き風が強めに吹きますので、お出かけになる時は風を通しにくい上着があると良いかもしれません。
近畿地方の「木枯らし1号」の発表基準(大阪管区気象台)
■期間:霜降(10月24日頃)~冬至(12月22日頃)まで

■気圧配置:西高東低の冬型の気圧配置

■風向風速:北よりの風が吹き、最大風速8m/s以上

名古屋主婦殺害の容疑者「26年間、毎日不安だった」…事件への関わりを家族にも話さなかったか

名古屋市西区のアパートで1999年11月、高羽(たかば)奈美子さん(当時32歳)が刺殺された事件で、殺人容疑で逮捕されたアルバイト安福久美子容疑者(69)が愛知県警の調べに「26年間、毎日不安だった。8月に警察が来て、捕まってしまうと覚悟した」と供述していることが県警への取材でわかった。奈美子さんに対しては、「申し訳ないと思っている」と謝罪の言葉を口にしているという。
県警や安福容疑者の近隣住民によると、安福容疑者は事件当時から逮捕されるまで、現場アパートから約10キロの地域で家族と暮らしていた。奈美子さんの夫の悟さん(69)が事件後に転居した自宅とは約2キロしか離れていなかった。
安福容疑者は県警の調べに対し、「事件発生日の頃になると気持ちも落ち込んで沈んだが、(自分に)家族や親族がいるし、迷惑をかけられず、捕まるのが嫌だった。事件に関する新聞も見られなかった」と話しているという。事件への関わりを家族にも話していなかったとみられ、逮捕当時は名古屋市内の大型スーパーで事務員のアルバイトをしていた。
県警は昨年、過去25年間の捜査資料の中から数百人をリストアップし、捜査を続けていた。現場アパートには奈美子さんのものとは異なる血痕が残されていたため、聴取した相手には、DNA型鑑定に必要な検体を提出するよう協力も求めてきた。
安福容疑者は今年8月以降に複数回、県警から任意で事情を聞かれていた。DNA型鑑定への協力は拒んでいたが、10月30日に応じ、その日の夜に県警西署に一人で出頭。31日にDNA型が一致したとの鑑定結果が出たため、殺人容疑で逮捕された。
事件当時、奈美子さんと面識がなかったとみられる。悟さんとは高校時代の同級生で部活動が同じだった。悟さんによると、安福容疑者と最後に会ったのは、事件の約5か月前に開かれた部活動のOB・OG会で、言葉も交わしていたという。

クマに襲われたか、「山に行ってくる」と出かけた女性の遺体発見…顔にひっかかれたような傷

秋田、青森両県で3日、クマに襲われたとみられる人身被害が相次いで判明し、1人が死亡、3人がけがをした。
秋田県湯沢市川連町の山林で3日午前9時頃、近くに住む女性(79)が死亡しているのが見つかった。顔にひっかかれたような傷があったという。
湯沢署の発表によると、女性は2日午前、「山に行ってくる」と家族に電話で伝えた後、連絡が取れなくなっていた。遺体が見つかったのは、自宅から数十メートル離れた山林で、女性は日頃からキノコを採りに行っていたという。
秋田市飯島緑丘町では3日午前5時半頃、出勤しようと自宅を出た男性(65)が体長約1・2メートルのクマに襲われ、顔にけがをした。現場には体長約50センチ・メートルのクマもいたという。
秋田県大仙市神宮寺の山林では3日午前7時頃、散歩中の男性(83)がクマに背後から襲われ、顔や腕をひっかかれた。
青森県十和田市切田の山中では3日午前10時15分頃、キノコ採りをしていた同市の70歳代男性から「クマに襲われてけがをした」と110番があった。十和田署によると、男性は顔にけがをしたという。