何者かが埋めたか…国の史跡・池上曽根遺跡から「大量の樹木」発掘調査中に発見 大阪・和泉市

国の史跡で発掘中に大量の樹木が見つかりました。何者かが埋めたとみられています。
遺跡で見つかった大量の樹木。大阪府和泉市によりますと、去年6月、和泉市と泉大津市にまたがる池上曽根遺跡で発掘調査中、樹木が埋まっているのが見つかったということです。
市が調べたところ、東西約28m、南北約18mの範囲で地面が数か所、深さ2mほど掘られていて、数年以内に伐採されたとみられる大量の樹木が埋まっていたということです。
池上曽根遺跡は弥生時代の大規模な集落跡で、1976年に国の史跡に指定されています。
遺跡にはフェンスなどはなく、市は何者かが大量の樹木を埋めたとみて、警察に被害の相談をしているということです。

「カニ食べに視察に行く」姶良市・湯元市長 記録的大雨の翌日にフェイスブックで不適切投稿 鹿児島

大雨により一人が亡くなり、今も断水が続く鹿児島県姶良市の湯元敏浩市長が、自身の「フェイスブック」で不適切な投稿をしていたことが分かりました。
姶良市によりますと、湯元市長は今月9日、断水で入浴できない市民のため市が無料開放した温泉について、SNSのフェイスブックで投稿しました。
この内容に関する市長の知人から届いたメッセージに対し、「冬はカニ食べに視察に行きますね。そのときは飲みましょう」などと返信したということです。
湯元市長の家族から指摘があり、9日中に投稿を削除したということですが、市にはきのう13日までに「不適切であり得ない発言」など、4件の意見が寄せられたということです。
湯元市長は投稿について謝罪し、「災害対応をしているときに不適切だった。不快に思われた市民に心からお詫びしたい」などとコメントしています。

「普通のクマとは違う行動」20代男性が薮に引きずり込まれ安否不明 あす捜索へ 北海道羅臼岳

北海道・知床半島にそびえる標高1661メートルの羅臼岳。
8月14日午前11時すぎ、登山客から緊迫の110番通報がありました。
「友人がヒグマに襲われた」
襲われたのは登山客の20代男性です。
通報者の男性と2人でいたところクマに襲われ、やぶの中に引きずりこまれたとみられています。
男性が襲われたのは標高550メートル付近で、通報した男性は逃げて無事でしたが、襲われた男性の安否はわかっていません。
(五百住アナウンサー)「救助隊が登山客を救助しています」
羅臼岳は現在、入山口が規制されていて、警察などのヘリコプターがほかの残された登山客を救出しています。
知床財団によりますと、羅臼岳の登山道では12日朝も登山客がクマに遭遇し付きまとわれていて、7月以降、人を怖がらないクマが相次いで目撃されていました。
クマの生態に詳しい専門家はー
(北大大学院獣医学研究院 坪田敏男教授)「羅臼岳は知床半島の中心にある山で登山者も多いし、ヒグマが多い中で登山者がたくさんいても事故が起こらないということでいい事例と思っていたんですけど、そこで人身被害が起こったのはショックでした。一般的にはヒグマは人を避けてくれる動物で、こちらの存在を先に知らせればクマが逃げてくれるのが常識。普通のクマとは違う行動を示していた、行動が変容していたクマだと思います。警鐘を鳴らしていたと思うが、できればそこは避ける、登山しない方が良かったと思う」
警察は安全を考慮して14日の捜索を断念、15日は午前5時から捜索する予定です。
今回の被害をまとめました。
14日午前11時すぎ、斜里警察署に「友人がヒグマに襲われた」と110番通報がありました。
現場は羅臼岳の標高550メートル付近で、襲われたのは20代の男性です。
警察によりますと、襲われた男性と友人は2人で午前5時から登山をしていて、下山する途中で被害にあったということです。
襲われた男性は友人の200メートルほど前を歩いていたところ、クマに襲われました。
友人が近づいてクマを追い払おうとしましたが、男性は登山道から林の方へクマに引っ張られていったということです。
その際、男性が太もものあたりから出血していたのを友人が確認していますが、現在も安否は分かっていません。

きょう終戦の日、各地で310万人の戦没者追悼…戦後80年の「首相談話」発表は見送り

15日で終戦から80年となる。戦地で亡くなった軍人や軍属、空襲や原爆の犠牲となった市民ら約310万人の戦没者を追悼する行事が各地で予定され、遺族らが祈りをささげる。参列者は戦後生まれが中心になるなど、80年を経て戦争を体験した遺族の減少が顕著になっている。
東京・日本武道館では政府主催の全国戦没者追悼式が開かれる。天皇、皇后両陛下をお迎えして、石破首相ら三権の長、遺族ら計約4500人が参列。正午から1分間の黙とうをささげた後、天皇陛下がお言葉を述べられる。厚生労働省によると、8日時点で3432人の遺族が参列を予定し、戦後生まれの参列者が過去最高の53・2%を占めるなど、戦争を体験した遺族の減少や高齢遺族の参列見送りが進んでいる。
また、政府は、終戦の日にあわせた戦後80年の「首相談話」の発表は見送る。首相はこれまで閣議決定されてきた談話を引き継ぎ、追悼式では戦争の惨禍を繰り返さないよう平和への誓いを新たにする。
首相談話は、戦後50年の1995年以降、10年ごとに閣議決定され、2015年の戦後70年談話は有識者会議の報告書なども基にまとめられた。いずれの談話も、先の大戦への反省やおわびを示した上で、今後の国際社会での日本の役割をうたう内容となっている。

逃走寸前…受け子出し子役の少年(16)スピード逮捕 80代女性からキャッシュカード詐取 北海道

北海道・帯広警察署は2025年8月12日、愛知県岡崎市の自称・アルバイト従業員の少年(16)を詐欺の疑いで緊急逮捕しました。
少年は8月12日午後2時半ごろ、十勝管内の80代女性の自宅付近で金融機関の職員を装い、キャッシュカード3枚をだまし取った疑いが持たれています。
警察によりますと、12日午後1時半ごろ、女性の自宅に「保険料の還付金があるが受け取るためにはキャッシュカードの交換が必要」などと詐欺の電話があったということです。
その1時間後、女性は自宅付近で金融機関の職員を装った少年にキャッシュカード3枚を渡し、暗証番号も教えてしまいます。
女性は詐欺だと気がつき、近くに住んでいる子どもや金融機関に電話をしました。
12日午後3時ごろ金融機関から「お客さんでカードをだまし取られ現金を下ろされた人がいる」と警察に通報があったということです。
少年は女性からキャッシュカードをだまし取ったあと、コンビニATMで現金を引き出しましたが、警察官がJR帯広駅で少年を発見して任意同行を求め、緊急逮捕しました。
この際、少年は引き出したとみられる現金を所持していたということで、調べに対し「間違いありません」と容疑を認めているということです。

中学生55人に1人が市販薬乱用 初推定、背景に孤立や生きづらさ

せき止め薬や解熱鎮痛薬などの一般用医薬品(市販薬)を過去1年以内に乱用目的で使った経験がある中学生は1.8%(約55人に1人)と推定されることが13日、厚生労働省研究班の2024年度調査で分かった。若年層を中心に薬の過剰摂取(オーバードーズ、OD)が問題となる中で初めて算出。乱用の背景には孤立や「生きづらさ」がみられるとしている。
調査を取りまとめた国立精神・神経医療研究センターの嶋根卓也研究室長は「結果は、乱用が全国に広がっている可能性を示唆している。子どもや家族を相談、支援につなげる仕組みが必要だ」と指摘する。
過去1年間に市販薬を「ハイになるため、気分を変えるため」に、定められた回数や量を超えて使用したことがあるかどうかを聞き、乱用経験率を推定。男子は1.5%、女子は2.0%で全体が1.8%。学年別では1年生2.1%、2年生1.8%、3年生1.6%とした。薬の入手先(複数回答)は、薬局・ドラッグストアなどの実店舗64.2%、家の常備薬33.3%などだった。

過酷な「シベリア抑留」、まだ帰らぬ3万超す遺骨…連行の背景は大戦で減少したソ連の労働力不足か

家族の記憶<2>俳優・玉木宏さんと祖父・武雄さん(下)

終戦時に満州などにいた人々はソ連によって各地の収容所(ラーゲリ)へ連行され、森林伐採や鉄道敷設、炭鉱労働などに従事させられた。これを広く「シベリア抑留」と呼び、長い場合は10年以上に及んだ。
ソ連は45年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦した。終戦の8日後、スターリンは抑留の極秘指令書に署名する。連行対象は「肉体的に適した」捕虜であること、地域ごとの人数配置……。指令に基づき、ソ連兵らが満州や朝鮮半島、南樺太などにいた日本兵らを連行。収容所では共産主義を植え付ける「教育」も行われた。
背景には、ソ連が大戦で人口の1割を超す2600万人以上の国民を失い、復興に向けた労働力を求めていたことがあるとされる。
人数などには諸説あるが、国は帰還者の証言などから約57万5000人が抑留され、うち約5万5000人が死亡したと推計する。厚生省(当時)が発行した「引揚げと援護三十年の歩み」(1978年)には「暖房設備及び燃料も不十分のまま、零下三、四十度の越冬生活を続け」など過酷さを伝える記述が残る。
帰国は日本を統治していた米国が46年12月、ソ連との間で抑留者の引き揚げに関する協定を結んだことで始まり、56年までに約47万3000人が母国の土を踏んだ。京都・舞鶴港には、子の帰りを待ち焦がれる母親が詰めかけて「岸壁の母」と呼ばれた。
一方で、死亡者のうち1万3000人以上は身元を特定できておらず、現在も3万柱を超える遺骨が異国の地に取り残されている。
〈かならず帰れる日がくる。まだぼくたちは若いし、人生は長いんだよ〉。作家の辺見じゅんさんによるノンフィクション「収容所から来た遺書」(89年)には、抑留中の主人公、山本幡男さんがそう周囲を励ます場面が描かれる。
山本さんは、玉木宏さんの祖父、武雄さんと同じ西ノ島の出身だ。45歳だった54年8月に収容所でがんで死去したが、その直前に病床で家族宛てにノート15ページ分の遺書をしたためた。仲間7人は遺書がソ連に没収される前に内容を暗記し、帰国後にそれぞれが山本さんの家族に伝えた。
島では、中学生が地元の偉人や文化をテーマにした劇を披露する「ふるさと演劇」で定期的に取り上げるなど継承に力を入れる。「山本幡男を顕彰する会」会長の岡田昌平さん(83)は「苦しくても希望を捨てない生き方を子どもたちに学んでほしい」と語る。
関東学院大学の小林昭菜准教授(日ソ関係史)は「かつては身近なところに抑留経験者やその家族がいて話を聞けたが、今となっては難しい。私たちに求められるのは、『どうすれば次世代に歴史を伝えていけるのか』と想像力を働かせることだ」と話した。

群馬県警の「取扱注意」資料から浮かぶ日航機墜落事故、生存者4人が明かした機内状況とは

もう一つの報告書・日本航空機墜落事故40年(上)

2024年6月。旧知の群馬県警関係者が青色のB5判の資料を差し出してくれた時、思わず息をのんだ。資料のタイトルは「日航機墜落事故事件の捜査記録 捜査編」。秘匿性が高い資料なのだろう。表題には「取扱注意(部内資料)」と記されている。
資料の存在は知っていたが、日航機墜落事故の取材を始めて10年の私が、最も読んでみたいと思っていた資料の一つをようやく手にすることができた。
資料は400ページ超、19章立ての構成だ。単独機の事故では最多の520人が死亡、4人が重傷を負った1985年8月12日の事故を受け、県警が3年4か月にわたり、延べ約4万5000人の捜査員を投入して行った捜査内容をまとめたものだ。
「先輩たちの労力に報い、群馬県警のためになるなら」

私が日航機墜落事故の取材を始めたのは、前橋支局に赴任した2014年4月だった。事故の2年前となる1983年生まれの私は、事故当時の記憶は全くない。
県警が88年12月に米ボーイング社、日航、運輸省(当時)の関係者20人を業務上過失致死傷容疑で書類送検したこと。前橋地検が89年11月、遺族らでつくる「8・12連絡会」が刑事告訴した関係者も含めて計31人全員を不起訴とし、90年に公訴時効が成立したといった基礎的なことも、それまでわかっていなかった。
まずは、「8・12連絡会」の文集や、航空事故調査委員会(現運輸安全委員会)の「事故調査報告書」などを読み込むことから始めた。事故から30年となる2015年8月に向け、遺族や事故調査官らへの取材を重ねると、一様に記憶の風化を懸念していた。県警が事故について独自にまとめた資料があることを把握したのは、報道機関が果たすべき役割の大きさを感じていた、この頃だ。
県警担当として、日々発生する事件・事故の取材に対応しつつ、資料の入手に努めた。ただ、普段は捜査のあり方について腹を割って議論できる幹部ですら、資料を少し見せてくれるだけで「これ以上はダメだ」と取り上げられてしまった。結局、17年9月に異動するまで資料を入手することはできなかった。
それから約7年後、その資料が目の前にある。内部文書の提供にためらいがあるのか、資料は一見何でもない白のポリ袋で包まれていた。「先輩たちの労力に報い、群馬県警のためになるなら」。その言葉の重さをかみしめた。
初期捜査で得た証言が裏付けた事実

当時の捜査員の苦労に思いをはせながら、資料を読み進めて最初に手が止まったのは、「第3章初期捜査」。この項目については、13日付朝刊の日航機墜落事故40年特集面と読売オンラインの特集ページで詳しく説明しているので、ぜひご覧いただきたい。
生存者に対する捜査では、時速約560キロに及ぶ衝突から奇跡的に一命を取り留めた4人の証言が収められていた。異常発生時の機内の様子や墜落時の状況などを知る上で重要な手がかりとなったはずだ。
たとえば、非番で事故機に乗り合わせていた日航客室乗務員女性(当時26歳)は県警の聴取に対し、「離陸後に週刊誌を読み始め、間もなく水平飛行になりベルトサインが消える頃、『バーン』と大きな金属音と同時に霧がたちこめ、私は週刊誌を床に落としてしまった」と証言。さらに「金属音がした地点は、最後部トイレの天井付近で、70センチ四方の穴が2か所開いて、中のテントの布様の物が風でパタパタと揺れていた」などと話していた。
県警は4人から話を聞いた結果、機体の後部破壊とそれに伴う急減圧の状況が裏付けられたとしている。
目撃者捜査では、事故機体に取り付けられていた飛行記録装置を解析して時間ごとの飛行状況を把握し、地上での目撃者の証言を集め、墜落までの裏取り捜査を進めていた。
羽田空港離陸から12分後の午後6時24分頃、相模湾上空で、日航機が「ドーン」という音を出した。これと思われる音を、三浦半島や伊豆半島で計6人が聞いていて、雷音と勘違いしていたという。
日航機のエンジン出力が上がらず、降下率が大きく増加していた奥多摩地方の上空の様子は、東京都青梅市と奥多摩町で計7人が目撃していた。うち1人は日航機を写真撮影していた。この写真により、すでに垂直尾翼の大半が欠落していた状態だったことが裏付けられた。
自衛隊の関与という偽情報を打ち消す捜査も

日航機墜落事故を巡っては、「自衛隊が関与した」「自衛隊の標的機が衝突した」などと根拠のない臆測が発生後から飛び交っており、現在も根強く残っている。
県警は当時、こうした「偽情報」を打ち消す捜査も行っていた。事故から40年。当時を知る人が減ってきている今こそ、事実を一つ一つ裏取りした「捜査編」を報じる重要さを痛感した。

「戦争が終わらなかったら…」 小松左京が考えた終戦の「もし」

「8月15日に太平洋戦争が終わらなかったら……」。そんな「もし」を考えたSF作家がいる。神戸一中(現兵庫県立神戸高)出身で神戸空襲も経験した小松左京(1931~2011年)だ。デビュー前に書いた短編小説「地には平和を」は、終戦直前に玉音放送が取りやめになり、本土決戦に巻き込まれる少年兵を描いている。
小松は戦後、京都大に進み、経済誌記者、放送作家などを経て、1962年に作家デビュー。「日本沈没」や「復活の日」がベストセラーになった。
「地には平和を」は61年に早川書房のSFを募集したコンテストに応募し、選外努力賞になった。
犯罪者によって改変された歴史の中で、45年8月15日に日本が降伏せず、本土決戦を迎える。主人公は旧制中学に通う15歳の少年。動員された工場が空襲に遭い、招集され、敗北を重ねる。10月に米軍の宿営地を襲った時に肩を撃たれ、爆発に巻き込まれて意識を失うが、すんでのところで歴史の改変に気付いた5000年後の未来人に救われる――との内容だ。
小松は創作の理由として、後のインタビューで、戦争末期に徴兵年齢が17歳に下げられたことを挙げている。「僕は戦後は大学まで行って、(中略)生き延びて幸せだった」とし、「沖縄の同世代の少年が戦闘員として銃を持たされて相当死んでいる。(中略)もしあのまま戦争が続いていたら、僕たちも同じことになってるんだ」と語り、「歴史的連帯」という気持ちで作品のテーマやタイトルが決まったと述べている。
次男で作品管理をする「小松左京ライブラリ」代表の実盛さん(61)=神戸市東灘区=によると、小松は優しい父親で、「何を聞いても答えてくれた」が、戦時中のことはあまり話したがらず、思い出を語った時は憤りをあらわにムッとしていたという。作家となってから「戦争を書こうとしていたようだが、挫折している」と解説する。
小松は戦争体験が作家になったきっかけと述べている。実盛さんは、小松と親しかった作家の野坂昭如が「火垂るの墓」などで自ら戦争体験を作品にしたのに対し、SFへと昇華させた小松は「戦争はこりごりだという思いが同じでも戦争への向き合い方が正反対だった」と語る。
「地には平和を」は主人公が「本来の歴史」の中で家族との幸せなひとときを過ごす一幕で終わる。実盛さんは「短くて読みやすい一方、リアルな描写に引き込まれる。世界では今も子どもが戦場に動員されている。ぜひ主人公と同年代の中学生に読んでほしい」と話す。作品は角川文庫の同名の短編集などで読むことができる。【柴山雄太】

大雨被害の鹿児島県姶良市長、SNSに「冬はカニ食べに視察に行きますね」…削除し「軽率だった」

8日に大雨に見舞われ深刻な被害が出た鹿児島県姶良市の湯元敏浩市長(61)が、被災後にフェイスブック(FB)で、「冬はカニ食べに視察に行きますね その時は飲みましょう」などと投稿していたことがわかった。
この大雨で同市では一時約1万7000戸が断水するなどした。湯元市長は9日、断水対応策をFBで告知。これに対する知人からのコメントに返信する形で今回の投稿を行った。家族の指摘を受け、削除した。
湯元市長は取材に「災害のあった時期にするコメントではなかった。軽率だった」とし、「カニ食べに視察に行く」との記載については、「公務という意味合いは全くない」と述べた。