「金返さず配信、やりきれず」=逮捕の男、恨み募らせたか―首の傷致命傷か、高田馬場女性刺殺・警視庁

東京・高田馬場の路上で動画をライブ配信していた佐藤愛里さん(22)が刺され、死亡した事件で、殺人未遂容疑で逮捕された職業不詳高野健一容疑者(42)が、金銭トラブルになっていた佐藤さんについて「金を返さないのに、配信で稼いでいることにやりきれなくなった」という趣旨の供述をしていることが12日、捜査関係者への取材で分かった。
「2023年の初めごろから(佐藤さんと)連絡が取れなくなった」と話していることも判明。警視庁捜査1課は、同容疑者が佐藤さんへの恨みを募らせていたとみている。
同課は同日、司法解剖の結果、佐藤さんの死因は出血性ショックだったと発表した。遺体は頭や顔などを30カ所以上刺されたり切られたりしており、首の傷が致命傷だったとみられる。腕にも抵抗した時にできる傷があったという。
捜査関係者などによると、同容疑者は、配信活動をする佐藤さんと知り合って以降、求めに応じて計200万円以上を送金したと説明。「金を返さない佐藤さんが今後も配信で稼いでいくことにやりきれなくなった」という趣旨の供述をしている。
同容疑者は21年12月から佐藤さんの動画を視聴するようになり、22年夏ごろには佐藤さんの当時の勤め先の飲食店を訪れるようになった。直接会ったり、LINEなどのメッセージでやりとりしたりしていたが、23年初めごろから連絡が取れなくなったと説明しているという。
事件は11日午前9時50分ごろに発生。佐藤さんはインターネットのライブ配信中に突然襲われ、死亡した。同容疑者は「生配信の告知を見て、同日朝に上京した」「生配信を見ながら佐藤さんを捜した」という趣旨の供述をしている。
[時事通信社]

飛び降りか、中学生2人死亡 兵庫・姫路のマンション

12日午後5時半ごろ、兵庫県姫路市飾磨区加茂のマンションで「ドンという音がした。下を見たら2人倒れている」と近隣住民の男性から110番があった。飾磨署によると、敷地内で同市の女子中学生2人が倒れており、搬送先の病院で死亡が確認された。14歳と15歳で、署は2人が飛び降りたとみて調べる。
署によると、マンションは15階建てで、最上階の通路に2人分の靴があった。2人は靴を履いていなかった。通報と同じ時間帯に「口論の末、娘が飛び出した。自殺をほのめかすようなSNS(交流サイト)投稿をしている」と女性から110番があった。2人のうちの1人の母親からとみられる。

引き取り手のない遺留品、14年たった今も47万点…保管の自治体「いつまで続けるべきか」

関連死を含む2万2228人の死者・行方不明者を出した東日本大震災は、11日で発生から14年となる。被災地では人口流出や復興事業で整備された施設の維持などに加え、がれきから見つかった遺留品の保管も課題となっている。引き取り手のない遺留品は少なくとも47万点に上っており、自治体は経年劣化や保管費用の負担に苦慮している。
持ち主が分からない日記や写真、ランドセルなどの遺留品は大半が津波にのまれたとみられ、これまでに190万点が遺族らに返却されている。引き取り手のない遺留品について、読売新聞が岩手、宮城、福島3県の沿岸37市町村に尋ねたところ、14市町が「処分」したとするのに対し、15市町村が外部への移管などを含めて「保管」を続けていると回答。8市町村は「収集なし」「返却済み」などとした。
すでに処分した自治体は「劣化が進み、場所の確保も困難」(福島県楢葉町)などを理由とし、保管を続ける自治体からも「引き取り手が年々減り、いつまで続けるべきか」(岩手県釜石市)との声が上がる。
岩手県陸前高田市の一般社団法人「三陸アーカイブ減災センター」は写真7万4000枚、トロフィーや獅子頭など物品2400点ほどを保管している。4年前に市が事業を取りやめたため、復興庁の「心の復興事業」補助金や寄付金で独自に活動を続ける。ただ、保管場所の確保や返却会の開催などに年間500万円超の支出が生じる。補助金がいつまで続くか不透明で、秋山真理代表理事は「被災した人が必要な時に思い出の品を探せるよう支援を継続してほしい」と訴える。
一方、全体のうち14市町村は、写真や物品の画像を「デジタルアーカイブ」として電子記録に残している。約5000点を11日から処分する福島県いわき市は、いわき震災伝承みらい館で遺留品の画像をデータベースで閲覧できる。同館の担当者は「複雑な思いもあるが、一つの区切りとしたい」と語る。

警察庁や復興庁などによると、関連死はこの1年で6人増の3808人。避難者は1713人減ったが、現在も2万7615人に上っている。東京電力福島第一原発の事故を受け、福島県民が9割ほどを占める。

新型出生前診断、全染色体に拡大へ 臨床研究で計画、25年度にも

妊婦の血液から胎児の染色体の状態を調べる新型出生前診断(NIPT)で、日本医学会が認証する全国の大学病院など14施設の研究チームが、特定の染色体でダウン症候群など三つの病気を調べる現在の検査について、全ての染色体を対象に広げる臨床研究計画をまとめ、関係学会に伝えた。対象は、エコー(超音波)検査で胎児の体から病気が疑われたケースなど約2000人の妊婦で、2025年度にも研究を始める。
染色体は人体の設計図で、計23対46本ある。2本ずつが基本だが、本数が1本や3本になることや、染色体の一部が欠けたり重なったりすると、病気の原因になることがある。認証施設では、13、18、21番染色体の本数が3本になっているかどうかに限って18年から本格実施されている。
一方、美容外科など認証を受けていない施設では、全ての染色体の状態も調べるとうたう検査が広がっている。3項目以外の病気は現れる頻度がまれで検査の精度は確立しておらず、誤った検査結果で混乱が生じるケースがある。
研究計画によると、全ての染色体を対象に、染色体の数や、一定の大きさ以上の欠失や重複を調べる。全染色体を対象にしたNIPTの実施を視野に、検査の精度を保てるかや、染色体の変化と胎児の病気との関連を明らかにすることを目指す。
対象は妊娠10週以降で、エコー検査で胎児の形態の特徴から病気が疑われた人や、過去に染色体疾患の子を出産した人などに限る。結果は希望者に開示する。
研究計画は、日本産科婦人科学会など3学会の意見書を受けて変更される可能性がある。
研究グループの一人によると、検査項目の拡大で、多発奇形や知的障害、発達の遅れなどの症状につながる、染色体の変化が分かる可能性があるとする。
一方、染色体の変化が見つかっても、病気につながるかどうかは分からないケースも想定される。病気が現れる頻度はまれで、必要なデータが集められるかも課題だ。【寺町六花】

東電福島原発事故から14年…山里の笑顔を撮影してきた元先生カメラマンが「どうしてもシャッターを押せなかった2カ月間」に起きたこと

一冊の写真集がある。
『あの日あのとき 古里のアルバム 私たちの浪江町・津島』(2024年10月15日、東京印書館発行)。
撮影者は福島県浪江町の津島地区に住んでいた馬場靖子さん(83)だ。
津島は、東日本大震災による東京電力福島第一原発(大熊町・双葉町)のメルトダウン事故で、最も深刻な放射能汚染を受けた地区の一つである。帰還困難区域に指定され、全住民が長期避難を余儀なくされた。爆発から14年が経過した今も、「帰れる」とされた土地はわずかに過ぎない。
そこには山里ならではの穏やかな生活があった。人々の笑顔もあった。しかし、一瞬で全て奪われた。掲載された約450枚の写真には、かつて存在した暮らしの楽しさと、失われた悲しみが凝縮されている。「今もこんな地区があるのです。忘れてほしくない」。馬場さんは写真集を手に訴える。
教員にだけはなりたくなかったが…
馬場さんは同じ福島県でも雪深い会津地方の喜多方市で生まれた。
父と姉は教員。「教員にだけはなりたくない」と栄養士になったが、勤務先の小学校で教諭や児童があまりに楽しそうだったので、大学で単位を取り直して採用試験を受けた。
カメラが好きになったのは、もしかすると母の遺伝子のせいかもしれない。農業に従事していた母は新しい物が大好きで、自分でトラクターを運転したほか、上からのぞく「ウエストレベルファインダー」のカメラを愛用していた。
ただ、馬場さんは当初、カメラに興味はなかった。初めて所有したのは、喜多方市内の小さな分校で勤務していた時、教員を対象にした生協の人に「買いませんか」と勧められたからだ。子供達が肥料袋でソリを作り、雪の斜面を楽しそうに滑るのを撮影した。
「馬場先生のクラスは本当に楽しかったんです」
この分校時代、やはり喜多方市内で働いていた津島出身の績(いさお)さん(80)と結婚した。その10年後、績さんが年老いた父母の農業を継ぐことになり、夫妻で津島へ移った。
勤務先も太平洋岸に近い双葉郡の学校へ異動し、教職人生のうち後半の20年間は浪江町の中心部にある浪江小学校や、同町の津島地区にある津島小学校で教鞭を執った。
「楽しい学校生活にしたい」「いろんな体験をさせたい」。馬場さんは、そのための道具としてカメラを使った。例えば、校外見学に出掛け、学んだことをもとにして校内でお店屋さんごっこなどをする。記録写真を教室に張り出すなどした。
「馬場先生のクラスは本当に楽しかったんです。うちの子もすごく世話になりました」。今でもそう語る親がいるほどだ。
友人からの誘いでNHKの通信写真講座を受講
2001年の春、教職を退いた。
退職後の馬場さんは、二つのことに挑戦した。
浪江町内で写真を趣味にしていた友人から「写真を習わない?」と誘われ、NHKの通信写真講座を受講した。毎月3枚の写真を送ると講評をつけて返してもらえた。
友人は写真集を出すほどの実力を持つ本格派で、県内外の祭りなどの撮影に誘ってくれた。躍動する踊り手を写すのは楽しかったが、帰ってから現像代に真っ青になることもあった。そのころはまだフィルムカメラを使っていた。
私にとって、津島の人々は皆が先生
それから、時を同じくして、津島の地域活動に深く関わるようになっていった。
津島は1956年の「昭和合併」で浪江町になった旧村だ。阿武隈高地に深く抱かれた山の中にあり、役場の津島支所がある地点は標高400mを超える。人口は1400人ほどしかおらず、和気あいあいとして、人のまとまりがよかった。少子高齢化に抗って、津島を盛り上げようという動きも活発になっていた。
75歳以上の高齢者向けに体操や紙細工の教室が開かれる時には、食事を用意するボランティアが集まる。馬場さんはこれに加わった。「ボランティア仲間と出掛ける年に1度の旅行も楽しみでした」と話す。
自慢の農産品などを直売所「ほのぼの市」で販売する「つしま活性化企業組合」にも参加した。
「よく『世間様』と言いますが、世の中には素晴らしい技術を持っている人がたくさんいます。私にとって、津島の人々は皆が先生で、目が見開かれる思いでした」
特産の凍み餅や凍み大根、凍み豆腐を作る高齢の女性達。
炭焼きが得意な高齢男性もいた。
津島は高冷地だけに花が美しい。皆でリンドウ栽培に取り組んだこともあった。
伝統芸能も受け継がれていて、「津島の田植踊(たうえおどり)」や「三匹獅子」があった。
穏やかな暮らしの中から自然に出てくる笑顔が写真のテーマに
馬場さんは津島という地域の魅力にはまっていく。いつもカメラを持ち歩き、「ちょっと撮らせて」と日常の風景を切り取っていった。
馬場さんがカメラを向けると、津島の人々はにこやかに笑う。穏やかな暮らしの中から自然に出てくる笑顔が、馬場さんの写真のテーマになっていった。
家では牛を撮るのが好きだった。
夫の績さんは津島に帰った後、和牛の繁殖に取り組んだ。
和牛の繁殖農家は、母牛に子牛を生ませ、約10カ月間育てて競りに出す。津島は山間部で農地に乏しく、気候が冷涼なので、大規模な耕作には向かない。このため、林業や石材業に加えて、畜産業が盛んだった。
一時は母牛を二十数頭まで増やした績さんだったが、町会議員に当選し、9期31年も務めたので余裕がなく、最終的には4~5頭の母牛に数頭の子牛の飼養規模にとどめていた。
あの日を境に、津島は一転した
子牛は1年足らず飼うだけだが、母牛になると10年以上の付き合いになる。経済動物とは言え、家族同然だった。4~5頭とあっては、なおさらだ。
馬場さんも夫が議会で忙しい時にはエサをやるなどして面倒を見た。
運動場で子牛にカメラを構えると、エサをくれると思うのか寄ってくる。興味津々に見つめる姿もかわいらしかった。
「まるで我が子のようだな」と感じることもあった。
しかし──。
あの日を境に、津島は一転した。牛との暮らしも奪われてしまう。
「まさか、これが最後になるとは。今思えば、もっとシャッターを切って、いろいろな場面を撮ればよかった」。馬場さんは震災発生2日前に撮った子牛の写真に、こんなコメントを添えている。
家に電話しても、誰も出ない
2011年3月11日の午後2時46分、最大震度7の揺れが東北を襲った。
馬場さんはちょうど、家を空けていた。実母の容体が思わしくなく、入院していた喜多方市の病院の担当医から連絡を受け、訪れていた。
母の病室に着いてから約15分後、激しい揺れに見舞われた。
「病室のロッカーが倒れるかもしれないと押さえていたら、看護師さんが飛んできて、『危ないからダメェ。ベッドの下に潜って!』と言われました。『震源はどこだろう。喜多方でさえこれだけ揺れたのに、大変な事態になっているのではないか』と談話室でテレビを見ていたら、津波が押し寄せる映像が流れました」
山間部の津島に津波の心配はなかったが、家に電話しても、誰も出ない。績さんは議会の会議で町役場にいた。
浪江町は沿岸部の請戸漁港などが津波に丸呑みにされていた。住宅倒壊も相次ぎ、圧死した人もいた。これらを含めた町内の直接死は182人を数える。被災時の人口2万1434人(住民基本台帳)からすると、かなり多い。
馬場さんは自宅が心配だったが、急変するかもしれない母を置いて帰るわけにはいかなかった。
原発で原子炉が暴走、浪江町は大混乱
翌12日朝、績さんに電話がつながった。「こちらは大丈夫だ。家は壊れていない。何も倒れていない」という話だった。「津島の地盤は強い」と聞いていたので、「やっぱり被害は少なかったのか」と少し安心した。
だが、浪江町はこの日、沿岸部だけでなく、町内全体がかつてない大混乱に陥った。東電福島第一原発で原子炉の暴走が止まらなくなったのだ。
午前5時44分、政府は原発から10km圏内に避難指示を出した。原発から約9kmしか離れていない浪江町役場には寝耳に水だった。当時の馬場有(たもつ)町長=故人=らはテレビでその情報を知った。
人口約1400人の津島地区には8000人以上が避難
夜明けから行う予定だった津波被災者の捜索は、急遽中止した。「助けを待っている人を見殺しにするのか」という猛反発もあったが、原発からの避難を優先せざるを得なかった。
役場は、町内でも原発からおおむね20km以上離れた山間部の津島地区へ町民を避難させると決めた。呼びかけが始まると、国道114号を津島へ向かう車が長蛇の列をなした。午後には役場も津島支所へ退避を開始したが、その最中の午後3時36分、原発では1号機建屋が爆発した。
「パーン」。その時、役場の隣にある浪江消防署では、消防隊員らが乾いた破裂音を聞いた。しばらくして、空からチリのような物が降ってくるのが見えた。
その後の午後6時25分、政府の避難指示区域は20km圏内に拡大された。ところが、これも浪江町には連絡がなかった。
町の記録誌によると、人口約1400人の津島地区には8000人以上が避難したとされる。津島小学校や各地区の集会所など、人が入れる施設はパンク状態になった。各戸にも親類や知り合いを頼り、大勢の人が身を寄せた。
私はとても危険な所へ向かっているのではないか
馬場さんは、母の状態が落ち着いていたので、とりあえず津島へ帰ろうと決めた。
13日朝に実家を出て、まずは喜多方市内のガソリンスタンドへ向かった。既に給油待ちの車が長い列を作っていて、午前中いっぱいかかって2000円分だけ入れてもらえた。
「津島では食べ物が不足しているに違いない。簡単に食べられるものを」と生協の店舗に寄ろうとしたが、駐車場がいっぱいで入れなかった。別のスーパーには入れたものの、パンなどは全て売り切れていた。
津島へのルートは、いつも通る郡山市で給水車に行列ができているというニュースが流れていたので、迂回して別の道を通った。
津島の手前の川俣町まで来ると、道の駅に大勢の避難者がいるのが見えた。国道の向こうから避難の車がどんどん走って来る。逆に原発の方へ向かうのは馬場さんだけだった。
「私はとても危険な所へ向かっているのではないか。自問自答しながらハンドルを握りました」と振り返る。
津島に入ると、地域は避難者でごった返していた。知り合いを見つけて声を掛けると、「朝から夫婦でお握りを一つしか食べていない」と言う。実家で炊いたご飯を「食べて」と渡した。
自宅には親類や知人が12~13人身を寄せていた。前夜は22人いたという。
馬場さんは食事の用意などで忙殺された。績さんは津島じゅうに押し寄せた避難者の世話で走り回った。
防護服にマスク姿の人も見かけた
そうしている間にも、原発の暴走は収まるどころか、取り返しがつかない事態になる。14日に3号機、15日に2・4号機と建屋の爆発や火災が続いた。12日の1号機も加えると、四つの原子炉建屋で「爆発的事象」(当時の官房長官説明)が起きていた。既に炉心溶融(メルトダウン)も進行していて、この時に放出された放射性物質のせいで、津島地区はかなりの濃度で放射能に汚染されたとされている。ただ、そうした情報が地元に伝えられることはなく、津島では子供を含めて多くの人が建物に入り切らず、屋外にいた。
馬場さんも「14日には家の周りを散歩して、フキを取ってきて食べました。今から考えるとかなり複雑です。少量なので大したことはなかったでしょうけれど」と話す。
防護服にマスク姿の人を見た人もいた。住民は不審がった。「ただ、逃げろとも何とも言わなかったそうです」と馬場さんは憮然と話す。
浪江町は町長の独断でさらに遠方へ逃げると決めた
こうした混乱のさなかの14日夜、隣の「葛尾村が逃げた」という情報が流れた。
葛尾村は多くの土地が、原発から20km圏内という政府の避難指示区域から外れていた。だが、村役場は複数の情報源から「政府の現地対策本部が置かれたオフサイトセンター(大熊町)の要員が、原発から約60km離れた福島県庁(福島市)へこっそり退避した」という事実をつかんだ。そこで午後9時15分、退避したオフサイトセンターの要員を追い掛けるようにして福島市へ全村避難する決断を下したのだった。この時の避難を呼び掛ける村内放送が津島にも聞こえ、騒ぎになった。
葛尾村と津島は、明治から大正にかけて、「組合村」を作っていた間柄だ。人間の付き合いが深いだけでなく、原発からの距離もそれほど変わらない。
浪江町は翌15日午前、馬場町長の独断でさらに遠方へ逃げると決めた。一度避難した津島地区からも退避して、全町民で町から脱出するという決定だった。国や東電からの情報はほとんどなかったが、この判断は後に正しかったと証明される。
馬場家に避難していた人も、それぞれ親類などを頼ってバラバラに逃げた。馬場さんは喜多方市の実家へ向かった。行き場がなかった知人2人を連れて行くことになった。
績さんも一度は喜多方へ来たが、津島に近い知人宅に泊めてもらうなどしながら、牛の世話に通った。
浪江町役場が二本松市内に仮事務所を設けると、近くに家を借り、夫婦別々に避難することにした。この状態が3年近く続く。そして、そのまま津島に帰ることができなくなっていくのである。
容体が芳しくなかった馬場さんの母は、混乱のさなかに亡くなった。
人を呼ぶように鳴く牛
馬場さんが家から唯一、意識して持ち出したのは喪服だけだった。
次第に、津島はかなり汚染されていたことが明らかになっていった。
それでも家から持ち出さなければならないものがある。馬場さんは5月にかけて5回、自宅へ向かった。ホームセンターで買った長靴や合羽に全身を包み、放射性物質が付着しないようにした。この時、撮りだめた大切な写真データも喜多方へ移した。
久しぶりに帰る津島はひっそりとしていた。まるで人の気配がない。
自宅に近づくと、気配を察した牛が鳴き声を上げた。
「夫も毎日行けるわけじゃありません。エサを多めに置いてきても、空腹だったのでしょう。普通ならモウモウと鳴くのに、ウモーっと人を呼ぶような鳴き方をしていました。それは悲しい鳴き声でした」と馬場さんは語る。
エサを与えて、なでる。放射線量が高いと分かっていたので、長居はできなかった。「こんな目に遭わせてしまって、ごめんね。かわいそうに」。胸が締めつけられた。
当時、原発から20km圏内の避難指示区域は立入禁止となり、多くの家畜が餓死していた。「せめて自由にしてやろう」と飼い主が放った牛は野生化していた。これらを含めて20km圏内の家畜は全て殺処分にすると政府は決めた。
績さんが牛と別れた時の様子に「あの冷静な夫が」と驚いた
一方、20km圏外の津島では、まだ人間の立ち入りができた。
ただ、そのまま飼育し続けることは不可能だった。績さんはやむなく牛を売ると決めた。牛舎の中で被曝しないよう管理していたが、被曝検査をしたうえで引き取り先を決めた。
馬場さんは立ち会わなかったのだが、績さんが牛と別れた時の様子を最近、知人から聞いた。「あの冷静な夫が」と驚いた。
「ご主人は悲しくて、悲しくて、牛を運んで行く車を追い掛けたんです。『危ない』って言ったのに、車の後ろをつかんで、放さなかった」
家族同然だった牛を、不条理な理由で手放さなければならなくなったことが、どれだけ辛かったか。
「あまりに苦しくて悲しいと、口に出せないことがありますよね。だからでしょうか。夫はひと言もその時のことを言いませんでした。最近になって初めて、人づてに聞いた話です」。馬場さんもうつむく。
ところで、馬場さんは3月11日から約2カ月間、写真を一切撮らなかった。撮れなかったと言った方が正しい。
「カメラはいつも持って歩いていたのですけれど……。撮るどころではなかったし、撮る気になれなかったのです」
津島のありとあらゆるものを撮ってきた馬場さん。だが、津島を捨てるかのようにして、出て行かざるを得なかった場面は、写せなかった。
写真=葉上太郎
〈 将来が見えない長期避難で、笑顔がなくなっていく、人が亡くなっていく。原発事故から14年。穏やかな暮らしの記憶は写真の中にしかないのか 〉へ続く
(葉上 太郎)

《“パワハラ認定”も》亡くなった元局長に「わいせつ」発言、告発者潰しと同時に論点ずらし…衝撃会見で見えた斎藤知事の本性

今まで他人事のような振る舞いをしていた人が遂に本性をあらわした。そんな衝撃会見だった。百条委員会の調査報告書を受けての斎藤元彦兵庫県知事である。
うそ八百ではなかった
約1年前、パワハラなどの疑惑を内部告発された斎藤知事は告発を「うそ八百」だと主張し、公益通報制度に基づく措置を取らなかった。それだけでなく、いち早く告発者を特定して懲戒処分にした。
かなりギョッとするが今回の報告書で「告発者潰し」にあたると判断された。職員への叱責についても「パワハラと言っても過言ではない」と。うそ八百ではなかったのだ。
しかし斎藤知事は告発文書への対応に問題はないとの姿勢を変えなかった。知事の発言に驚いたのは読売新聞の社説だ。
《これでは、再び同じような事態が起きても、また告発者潰しをやると言っているに等しい。》
そう、怖いのは“これからの宣言”でもあることだ。声を上げた人間がどうなるか見せているようにも思える。兵庫県の職員にとってこんな恐怖はない。
斎藤知事の言動については他紙も指摘していた。報告書について知事は「一つの見解」と言った。すると、
《百条委の結論は、多くの見解の一つではない。斎藤氏は「県民の皆さんがどう判断するか」とも語るが、知事自身が聞く耳をもたないと、二元代表制は機能しようもない。》(朝日新聞社説)
《日本の地方自治は首長と議会の二元代表制である。地方自治法に基づき県議会に設置した百条委の判断を斎藤氏は真摯に受け止めなくてはならない。》(産経新聞「主張」)
告発者潰し&二元代表制を機能させない。凄まじい現状である。
日経新聞の社説は「違法性の判断は司法の場でされることだ」との知事の認識について、
《違法でなければ問題ないという姿勢は、行政を担う政治家として資質を疑わざるをえない》
そういえば「違法でなければ問題ない」はこの10年くらい、政界を発信地として社会を覆った象徴的な態度ではなかったか? 今また兵庫で実践されている。
今回最も衝撃的だったのは次だ。告発者(元県民局長)に関して、
《さらに斎藤知事は、元県民局長をおとしめるような発言も繰り返した。》
なんと! 具体的には、
《公用パソコン(PC)から見つかった私的文書の内容に初めて踏み込み、「倫理上、極めて不適切なわいせつな文書」とした。》(朝日新聞デジタル)
昨年の週刊文春で最も印象深かった記事
告発者は「死をもって抗議する」という文言を遺して自殺している。否定や弁解ができない相手に対して斎藤知事は言った。私的文書は、知事の指示を受けた片山安孝・前副知事が「告発者捜し」の過程で回収したPCから見つかったものだった。
ここでおさらいしよう。私が昨年の週刊文春で最も印象深かった記事は7月25日号にあった。告発したX氏の情報が兵庫県庁で出回っていたという時点で文春は以下のように書いていたのだ。
《中身についてはX氏が決して触れられたくなかったことであり、本稿では言及しない。ただ、X氏の告発を握りつぶすためにこれを利用しようとする行為がどうしようもなく卑劣であることは論を俟たない》
文春は告発者のプライベートについては報じなかった。公益通報とはまったく別問題だからだ。
昨年12月19日号でも文春は告発者X氏の“公用PC”の中身を報じなかった「3つの理由」として、
(1)申入書の存在
(2)公用PCの中身がX氏による告発の内容とは無関係だから
(3)公用PCの中身について真実かどうか見極めるのが困難
と説明している。“あの文春”が報じなかった理由は大事なので何度でも書いておきたい。
しかし片山前副知事は百条委員会でX氏のパソコンの中身についてわざわざ口にした。プライベートや真偽不明の内容に委員長の奥谷謙一県議が制止した。このやりとりを「隠し録り」した録音データが維新県議だった増山誠氏から立花孝志氏の手元に渡り、立花氏は拡散させた。
これらの「選挙戦」に対して斎藤知事はずっと他人事だった。百条委員会を務める県議らへの誹謗中傷にも一般論を繰り返すのみ。
そして今年1月、前県議の竹内英明氏が死亡した。百条委副委員長だった維新の岸口実氏は知事選期間中に立花氏と会い、委員だった竹内県議を「(告発問題の)黒幕」呼ばわりする紙を渡した。中傷された竹内氏は、県議を辞職したあとに死亡。自殺とみられる。
そのあと立花氏は「竹内氏は逮捕予定だった」などと発信。数日後の記者会見では知事に対して立花氏に発信を「やめるよう言うべきではないか」との記者の質問が相次いだが、斎藤知事は25回以上、「SNSによる心ない誹謗中傷は決して許されない」などと一般論に終始。
告発者潰しと同時に論点ずらしである
2月1日の読売新聞は、SNS上で拡散された「竹内氏は逮捕予定だった」との情報を、1月20日の県議会で「事実無根」と指摘した村井紀之・県警本部長のインタビューを載せた。警察が個別の案件に言及した異例の対応については「(拡散が続けば)社会にとって不利益だと考えた」という。でもこれは本来なら斎藤知事が呼びかけることだ。なぜか静観していた知事。
すると今回、遂に本心をあらわした。亡くなった告発者をおとしめるような発言を繰り返した。告発を握りつぶすために「私的文書」を利用しようとする行為は「どうしようもなく卑劣」と文春は昨夏に書いたが、知事自らがその行為を堂々としたことになる。
これは告発者潰しと同時に論点ずらしであることにも注目したい。やはりマズいという自覚があるからか、興味深いのは百条委員会そのものを否定する言動もあることだ。片山元副知事や増山県議らは「不公正な委員会運営」「百条委員会は中立性、客観性が損なわれている」などとコメントしている。
しかしその百条委員会で告発者の私的文書をわざわざ取り上げ、真偽不明の内容を流出させようと懸命だったのは誰だったのか。百条委員会を利用できるときはして、結果が意に添わなければ否定するのは幼稚な振舞いだ。
論調に違いがある新聞各紙が今回は揃って社説で斎藤知事を批判した。日経新聞は「知事は百条委報告に向き合え」とタイトルにし、読売新聞は「告発者を貶め、公益通報制度を蔑ろにする行為が許されないのは当然である」と冒頭に書き、朝日新聞は「改めて問う。斎藤氏は知事の資質を欠いているのではないか」と締めていた。
でもやっぱり「オールドメディア」が言ってることだから無意味なの?
(プチ鹿島)

笑顔と色が消え、無表情になった原発事故被災地…元先生カメラマンが「自撮り」で伝えたかった「被災した私」

〈 将来が見えない長期避難で、笑顔がなくなっていく、人が亡くなっていく。原発事故から14年。穏やかな暮らしの記憶は写真の中にしかないのか 〉から続く
小学校の教員を退職後、福島県浪江町の津島地区に住む人々を撮影してきた馬場靖子さん(83)。
『あの日あのとき 古里のアルバム 私たちの浪江町・津島』(2024年10月15日、東京印書館発行)に収録された写真は、東京電力福島第一原発(大熊町・双葉町)の事故でバラバラになる前の住民の笑顔がとても印象的だ。
だが、原発事故による避難後、馬場さんが撮影する写真は大きく変わった。「自撮り」が増えたのである。しかも笑顔はない。表情がないとい言った方が正しいかもしれない。
なぜなのか──。
震災後に初めて「撮りたい」と思った日
いつもカメラを持ち歩いてきた馬場さんが、全くシャッターを押さなかった期間があった。
東日本大震災が発生した2011年3月11日から約2カ月間である。
原発では4基の原子炉建屋が相次いで爆発・火災を引き起こし、津島にも目に見えない放射性物質の恐怖が迫っていた。住民はバラバラに避難し、馬場さんも約140km離れた会津地方にある同県喜多方市の実家に身を寄せた。
この間、周囲を撮影をする余裕などなかった。シャッターを押す気持ちにさえならなかった。
その後、初めて「撮りたい」と思ったのは、津島を脱出してからちょうど2カ月が経過した5月15日のことだ。
避難先の喜多方市から最低限の荷物を持ち出そうと津島に戻った5回のうち、最後の日だった。
自宅に別れを告げ、隣町との境にある緩やかな峠に向かう。これを越えると、もう当分は帰らない。ふと道路の横に視線を移した馬場さんは、美しさに目を奪われた。
花がいっぱいに咲き乱れていて、なだらかな山には新緑が萌えていた。
放射性物質に汚染されて、人は消えても、自然は芽吹き、花は相変わらず彩り鮮やかに咲いていたのである。
思わず車を止めてシャッターを切った。
津島は四季の移ろいがはっきりしていて、花が美しい。避難で凍てついていた馬場さんの心は少し溶けた。
津島の変化を記録しておかなければならない
馬場さんはこの写真を撮った後、再びカメラを構えるようになった。津島の人が入った仮設住宅を訪れるなどして撮影を始めたのだ。ただ、人が消えた津島を写す機会はなかった。
放射線量が高いと分かっていたので、わざわざ帰らなかった。自宅には2年以上、一度も足を踏み入れることはなかった。
そんな2013年7月、津島を訪れる機会ができた。夫の績(いさお)さん(80)の弟が、埼玉県から墓参りに来るのに同行することになった。
これがきっかけとなり、馬場さんは津島に立ち入るようになる。津島はどのように変化したのか。そして変化していくのか。記録しておかなければならないという気持ちが頭をもたげた。
なぜ自撮りを始めたのか
同年10月には1人で向かった。
自宅の前で車を止め、防護服や雨合羽をまとって、玄関へ向かう坂を上がる。両脇はツツジやサツキでいっぱいだったのに、ササが侵出するなどしてぼうぼうになっていた。
その坂を上がる後ろ姿を、三脚で「自撮り」した。わびしい背中が写っていた。
この時、なぜ自撮りをしようと思ったのか。今でもよく分からない。後に「写真を撮影する人としては、珍しい行為だ」と、多くの写真を専門とする人に言われた。
写真集には自分なりに整理して考え、次のように記した。
「その荒れゆく姿を見るたびに色んな感情がわき起こる。それは自分がここの住民であり、数年前まではここで当たり前の暮らしをしていたのだ。それが何の心の準備もないまま、追い出され、ここに来るためには色々な手続きをし、時間も制限され……などなど考えると、疑問だらけ。
もしかして今建っているものも、いつか壊し(いや壊れ!)何もなくなってしまうかも知れない。
その時、『あれ、ここにあったものはどこに行ったの?だれが住んでいたの?』と人が住んでいた証もなくなってしまう。
自撮りを始めたのは『ここは私達が暮らしていた所です!』という自己表現の気持ちからだった。
この光景がもうすぐ無くなってしまうと、今あらためて考えると非常につらいものがある」
「要するに、震災は自分に起きた出来事です。自分事として捉えた記録を残しておきたいという気持ちがありました。ただ、最初に自撮りをした時には、そこまでの意識はありませんでした」と明かす。
人がいなくなった。ならば、自分を撮るしかない
馬場さんは被災前、津島の魅力を人々の笑顔を撮影することで表現していた。
だが、被災後は避難指示区域となり、人がいなくなった。一時帰宅しても、馬場さんしかいない。ならば、自分を撮るしかない。「そこに住んでいた自分」「被災者としての自分」を撮ることで、何かが見えてくるのではないかと直感していたのではなかろうか。
その証拠というと言い過ぎかもしれないが、「自撮りされた馬場さん」には笑顔がない。というより、表情がないのだ。笑顔に満ちていた被災前の写真とは正反対だ。
「もちろん感情がないわけではありません。むしろ、いろんな感情がわいてきて、表に出すのが難しいほどでした」と馬場さんは語る。
ただ、時に無表情ほど雄弁に物語るものはない。津島は「笑顔」から「無表情」のまちに変わったのだった。
写真集の中の馬場さんは、防護服に雨合羽のスタイルで、荒れた屋内を片づけ、お気に入りの服を引っ張り出し、2階の窓から津島を見る。
自宅が雑草に呑み込まれていく様子も見つめる。
自宅の正面に設けたバリケードの前に立ち、「あと、何回来られるだろうか」と考える。
田んぼには身長をはるかに超えた草木が生い茂り、かつての面影などどこにもない。皆と一緒に作業をして、休憩中にお茶を飲みながら談笑したのが嘘のようだ。
自宅の放射線量を計測すると、地面に近い場所ではあったが、34マイクロシーベルト以上の値を示して驚いた。福島で汚染された地区の中でもかなりの高さだ。
「自撮り」写真で目立つのは、馬場さんが花を持ち歩く姿
自撮りの馬場さんは、避難後の津島の惨状を淡々と暴き出していく。
馬場さん夫妻は2013年12月、自宅から50kmほど離れた福島県大玉村に中古住宅を買った。屋内には震災でできたひび割れが大きく残る。直していない。「私達が余生を過ごすだけだから、それぐらいは大丈夫でしょう」と馬場さんは語る。実質的にここが終の住処になるのだろう。
津島の自宅には、母屋と農業用倉庫が二つ、そして牛舎があった。これらは、倉庫一つを残して全て解体した。
倉庫の中には2年しか使わなかったコンバインが入っている。績さんが農業を継ぐため、会津から2人で戻って来た時に買った年代物のトラクターも健在だ。
績さんは「まだまだやれる」と言うものの、将来の見込みが立たない。
「自撮り」写真で目立つのは、馬場さんが花を持ち歩く姿の多さだ。
花は共同墓地に供えるためのもので、墓参りが「帰宅」の理由のかなりの部分を占めていることが逆に分かる。
墓地では馬場家の墓以外にも、線香を上げて回る。すると、墓参りに帰った人の痕跡が残っている。「ああ、あの人が来たのだな。元気にしているのかな」などと想像を巡らせる。
そうして再々墓参に戻る人がいる一方、「避難先」に代々の墓を移した人もいる。「自分がいなくなった後、子供らが墓参りをする時、遠方の津島まで行くのは負担だろうから」という配慮からだ。そうなると、いよいよ故郷との縁が切れかねず、辛い選択になる。
日本リアリズム写真集団に組み写真を応募
馬場さんは「皆、帰りたいと思っていても、帰れる状況ではありません。そのうちに廃村というか、棄村にされてしまうのではないかと感じます。そうした現状を多くの人に知ってほしいと思うようになりました」と話す。
だが、写真一枚では伝え切れないと感じた。そんな時、日本リアリズム写真集団の公募展は組み写真で応募するのだと知り、2016年に初めて応募した。
避難から2カ月後に荷物を取りに帰宅した時、道路の横で目を奪われて撮影した美しい花々。そこに住んでいた女性が仮設住宅に入っていると聞いて、プリントを見せに行くと、女性は食い入るようにして写真を見た。他にも草でぼうぼうになった家の庭にぽつんと咲いた紫のキキョウ。帰還困難区域に指定された津島では自宅に行くにも申請が必要で、ゲートを通るにはかなり厳しくチェックされた。こうした理不尽さなどをテーマに、組み写真にして応募したのだった。
他にも、浪江町の中心部の避難指示が2017年3月31日に解除された後、人の気配がしない市街地の組み写真を「帰還率0.8%」というタイトルで応募したことがある。
写真集や展覧会で大きな反響
暮らしの中から自然に出てくる笑顔がテーマだった馬場さんの写真は、原発事故で被災した地域の問題を切り取る社会派の写真へと転換していった。
日本リアリズム写真集団には、応募を重ねているうちに会員として加わり、会合にも参加するようになった。
そうした時、同集団の関係者に「貴重な写真だから写真集にしてみたら」と言われた。
馬場さんは「確かに写真集だと、昔の津島と今の津島が同時に残せる。今の荒れてしまった津島しか知らない人に、昔はこんなに穏やかでいいところだったんだよと伝えられる。昔を知っている人には思い出してもらえる」と考えた。
写真集が完成した直後の2024年10月18日~12月21日、福島県三春町のギャラリーで写真展を開いた。すると大きな反響があった。
まず、避難前の津島のことを知っている人からは「すごく懐かしくて、すぐに全部見た」「泣きながらページをめくった」という声が届いた。
「昔の津島には色があったんですね」
避難後しか知らない人からは、意外な反応があった。
例えば、ある放送局のカメラマンが写真展を見に来てくれた。そして「昔の津島には色があったんですね」と驚いていた。
このカメラマンが初めて津島を訪れたのは、原発事故の直後の取材だった。津島では全てが「茶色っぽく見えた」のだと言う。だが、馬場さんが被災前に撮影した写真には、3人の女性が楽しそうに赤い木の実を集めている姿が写っていた。「赤色があって、緑色もある。色がありますね」と感慨深く言われた。
被災前の津島には、人々の笑顔があって、彩りが豊かだった。しかし、避難後の津島は無表情になり、色がなくなってしまったのかもしれない。
そんな津島はどうなっていくのだろう。
「残念だけど、私には見届けられないな」
馬場さんは「今年の1月17日で阪神・淡路大震災の発生から30年が経ちました。被災した人は、決して皆が順調にいっているわけではなく、以前の暮らしを取り戻せているわけでもないと新聞で読みました。30年が経過してもそうなのか、こちらはまだ15年が経過していません」と話す。
しかも、津島では2023年3月31日、ほんの一部の土地で避難指示が解除されたにすぎない。町営住宅が10戸整備されたが、そこにぽつんとあるだけに近い状態だ。政府は今後、希望者の宅地などに限り、「2020年代にかけて」除染を進める。
復興への足どりは、極めて遅い。
馬場さんは命ある限り、津島の写真を撮り続けていく考えだ。
「でも、長い時間がかかるのでしょうね。残念だけど、私には見届けられないな」
寂しそうに、つぶやいた。
写真=葉上太郎
(葉上 太郎)

「電車事故のご遺体は、バラバラになった身体に小石が混ざっていた」“顔だけ”の遺体を火葬したことも…元火葬場職員が明かす、損傷が激しい遺体を火葬する難しさ

1万人のご遺体を見送った経験のある元火葬場職員・下駄華緒さん。各種メディアで火葬場の実態を発信し続けている彼が、火葬場の裏側や仕事の実情を描いたコミックエッセイ『 最期の火を灯す者 火葬場で働く僕の日常 』(竹書房)の第4巻を上梓した。
火葬場にはどんなご遺体が運ばれ、どのように火葬しているのか。火葬場職員は、ご遺体やご遺族とどのように向き合っているのか。下駄さんに話を聞いた。(全2回の1回目/ 2回目 に続く)
◆◆◆
バラバラになったご遺体に、小石が混ざっていた理由
――本作では、電車事故で亡くなったご遺体など、事故・事件のご遺体の火葬エピソードが多い印象を受けました。
下駄華緒さん(以下、下駄) 電車事故のご遺体は、「轢死体」というやつですね。僕が実際に担当したご遺体は、身体はバラバラになっていて、ところどころ小石が混ざっていました。
――小石?
下駄 はい。断定はできないのですが、線路上にあったご遺体を拾い集めるときに、近くにあったものなのかな、と。
「小石が混ざったまま火葬場まで運ぶなんて……」と、不謹慎に思う方もいるかもしれません。でも、鉄道の職員さんはバラバラになったご遺体をできるだけ取りこぼさないよう、小石も一緒に拾ったんだろうなって僕は思うんです。
火葬場職員が事故に関わった鉄道職員さんと直接話す機会はないので、実際のところはわかりませんが。
身体がバラバラになっていると、うまく火が当たらない
――電車事故以外にも、事故によるご遺体を火葬したことはありますか?
下駄 もちろんあります。日本全国で事故があるから、火葬場でそこそこの年月働いていたら、いつかはぶち当たることですね。
――事故や事件によるご遺体は、通常のご遺体との違いはあるのでしょうか。
下駄 死因にもよりますが、轢死体のように身体がバラバラになっていたりすると、火葬が難しいことが多いです。
――どうしてバラバラになっていたら、火葬が難しいのでしょうか。
下駄 例えば、頭や顔は骨に覆われていますよね。骨に覆われていると、内臓まで火葬するのには時間がかかります。通常の火葬では、目や鼻などの穴から火を当てることで、火葬時間をできるだけ短縮するんです。
ただ身体がバラバラになっていると、うまく火が当たらないことが多くて。そういう時は火葬専用の“棒”を使って向きを変えたりして、普段よりも注意しながら焼かないといけません。
「魚や微生物に身体を食べられてしまった」水死して白骨化したご遺体を火葬することも…
――他の事故の場合も難しい点はありますか?
下駄 水死や焼死も難しいです。例えば水死の場合、長時間水中にあった状態で肉がふやけてしまうと、骨にも水が染み込んでしまいます。そうなってしまうと、火を当てても骨がなかなか焼けないんですよ。特に魚や微生物に身体を食べられてしまって、ほとんど白骨化した状態のご遺体は、火葬終了までにかなりの時間がかかります。
――すでに骨になったご遺体も、火葬するのですね。
下駄 はい。「骨だけになったら、そもそも火葬する必要があるの?」とよく質問されますが、火災で焼けて骨になった場合でも火葬するんですよね。お箸でサクっと割れる状態にする、いわゆる「焼骨」にすることが目的なんです。
普段であれば、お肉がついている人間の形のまま火葬します。人の身体はうまくできていて、その状態で火葬すると骨だけになった時点がちょうど良い焼き加減になるんです。ただ白骨化したご遺体は元々が骨なので、どの時点で火葬が完了したのか判断が難しくなるんですよ。
「動物に身体を食べられ、残っていたのが頭部だけだった」顔だけのご遺体を火葬する難しさ
――下駄さんの中で特に火葬が難しかったご遺体はありますか?
下駄 顔だけのご遺体は難しかったですね。
――顔だけ……?
下駄 森でお亡くなりになった方で、ご遺体が発見されるまでに身体のほとんどを動物に食べられてしまったようで。見つかったときに残っていたのが、頭部だけだったんです。顔だけの状態で、どうやってきれいな焼骨にすればいいのか、初めての経験で悩みました。
――顔だけもそうですが、バラバラであればあるほど焼骨の難易度が上がるということですね。
下駄 いつもと違うから、やはり難しくなりますね。最終的には、ずっと火をつけていればどんな状態のご遺体でもいつかは焼骨になります。でも、火葬場職員としては少しでも早い時間で火葬したいんですよね。
――なぜ早く火葬したいのでしょう?
下駄 例えば、ゆっくり焼くのと早く焼くので15分の差ができたとします。骨は火を当て続けると少しずつ脆くなっていくんです。早く焼き上がった方が、お骨上げの際に綺麗な状態で骨が残るんですよ。
また、火葬時間を短くすることで冷却時間を確保できます。例えば火葬からお骨上げまで2時間の場合、1時間の火葬なら1時間の冷却時間がとれますが、1時間半かかってしまうと、30分しか取れません。
そうすると、充分に冷めない状態でお骨上げをすることになるから、ご遺族に怪我や火傷をさせてしまうリスクが出てくるんです。それを防ぐためにも、火葬時間はなるべく短くしたいんですよね。
「バラバラのご遺体を火葬した場合、骨を並べ直すかどうか」火葬場職員が独断で判断してはいけないワケ
――火葬場の職員には、想像以上の臨機応変さが求められるのですね。
下駄 そうですね。ただ、どんな場合でも、基本的には職員1人で判断しないという原則があるんです。例えばバラバラのご遺体を火葬した場合、当然バラバラの状態の焼骨ができあがります。
この骨を、もとあった場所に並べ直すのか、バラバラのままにするかは悩みどころです。骨を並べ直して「きれいにしてくれた」と喜ぶ方もいれば、「勝手に触られた」と不快に思う方もいますから。
先ほど話した、“小石”についても同じです。ご遺体と一緒に小石が入っていたら「なぜきれいに取り除いてくれなかったのか」と不快に思う方もいれば、その状態を見て「これが現実なのか」と受け止める方もいます。
こうした判断は火葬場職員ではなく、最終的には葬儀屋さんに委ねます。葬儀屋さんはご遺族と直接話す機会が多いから、ひととなりやご意向もある程度把握している。とにかく、火葬場職員が独断で判断しないよう心がけていますね。
――火葬場の先輩や上司よりも、ご遺族との関係性がある葬儀屋さんに相談するわけですね。
下駄 最近は、ご遺族を第一に考える火葬場が増えてきています。以前は、火葬してもらわないと困るから、葬儀屋さんはもちろんご遺族よりも火葬場の方が立場が上、と考えているところがあったんですよ。ご遺族の意向なんておかまいなしに、好き勝手振る舞う火葬場職員も少なくなかったんです。
でも、火葬場の事情がオープンになるにつれて、職員の考えも少しずつ変化してきた。今でも、古い考えのまま経営している火葬場はありますが、それよりもご遺体やご遺族のことを最優先に考えるところが増えてきていると思いますね。
殺人事件によるご遺体も、火葬場に運ばれてくる
――書籍の中では、火葬の時点では不慮の事故で亡くなったと思っていたけれど、後日殺人事件の被害者で、犯人は火葬場で夫の死を深く悲しんでいるように見えた妻だった……という話も描かれていました。
下駄 書籍に書いた話は、僕と同じように火葬場で働いていた友人から聞いたものです。いわゆる殺人事件によるご遺体も、火葬場に運ばれてきます。ただ、書籍と同様に、殺人事件かどうかは後から知ることが多いですね。
――ご遺体が運ばれてきた段階では、死因が事件性のあるものだったかどうかわからないわけですね。
下駄 そうです。ご遺体は亡くなってすぐに運ばれてくるから、その時点では何が原因かはっきりとはわからないことも少なくありません。火葬が終わってしばらくしてから、ニュースを見ていたら「あ、この方は先日火葬した方だ」と気づくことが何回かありました。火葬するときに、顔と名前は確認しますから。
撮影=細田忠/文藝春秋
〈 「東日本大震災は死者が多すぎた」「火葬が追いつかないから海岸沿いに遺体を埋めて…」元火葬場職員が語る、“災害大国”日本で火葬場が果たす役割 〉へ続く
(仲 奈々)

「東日本大震災は死者が多すぎた」「火葬が追いつかないから海岸沿いに遺体を埋めて…」元火葬場職員が語る、“災害大国”日本で火葬場が果たす役割

〈 「電車事故のご遺体は、バラバラになった身体に小石が混ざっていた」“顔だけ”の遺体を火葬したことも…元火葬場職員が明かす、損傷が激しい遺体を火葬する難しさ 〉から続く
1万人のご遺体を見送った経験のある元火葬場職員・下駄華緒さん。各種メディアで火葬場の実態を発信し続けている彼が、火葬場の裏側や仕事の実情を描いたコミックエッセイ『 最期の火を灯す者 火葬場で働く僕の日常 』(竹書房)の第4巻を上梓した。
かつて大震災が起こった際に、火葬場は大きな混乱に陥ったという。なぜ震災時に火葬場の混乱を招いてしまったのか。火葬場は公共インフラとして、どのような役割を果たしているのか。下駄さんに話を聞いた。(全2回の2回目/ 1回目 から続く)
◆◆◆
過去の大震災時は火葬が追いついていなかった
――今回の書籍では、震災時の火葬についても取り上げられていました。下駄さんは、子どもの頃に阪神大震災を経験されたそうですね。
下駄華緒さん(以下、下駄) はい。当時僕は小学3年生でした。地震の大きさには驚きましたが、幸い僕の住んでいたマンションは一部損壊で済んだのです。ヒビが少し入った程度だったから、そのまま自宅に住み続けられました。
でも、友人の中には長い間、家族で学校の体育館に避難している人もいましたね。当時は今ほどプライバシーへの配慮もなく、老若男女関係なく雑魚寝していたと聞いています。また、あまりにも被害が大きかったから、火葬が追いつかずにご遺体と被災者が一緒に過ごすような避難所もあったそうです。
――下駄さんは当時小学3年生だったということは、後になってから当時の話を聞いたり、調べたりしたのでしょうか?
下駄 はい。当時について調べたところ、震災の影響で故障してしまった火葬場もあったそうです。それでも、亡くなった人は通常の何倍もいましたから、24時間体制で火葬しても追いつかない。
これをきっかけに、「災害時には、火葬においても地域を超えて連携しないといけない」、いわゆる「広域火葬計画」の考えが広まっていきました。
でも、それから10数年後に起こった東日本大震災では、広域火葬計画がうまく機能しませんでした。被災地の火葬は追いつかないし、ご遺体を一時保管するためのドライアイスも足りない。そのため、海岸沿いにご遺体を埋め、順番が来たら掘り出して火葬するという対応をとっていました。
東日本大震災後、広域火葬計画への意識が高まった
――その作業に携わった方々の苦労は、相当なものだったでしょうね……。なぜ、そんな事態になってしまったのでしょうか?
下駄 阪神大震災以降に広域火葬計画の考え方が広まったとお話ししましたが、いろんな事情から策定していない自治体が多かったんです。その中には、東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県、宮城県、福島県も入っていました。
ただ、それ以降は一気に意識が高まって。例えば2024年にあった能登半島地震では、早い段階からヘリコプターでご遺体を他県に移送して火葬することを検討するなど、広域火葬計画が機能していました。もちろん、まだまだ課題はありますが、歴史から学んで少しずつ改善されてきていると思いますね。
一方で、さらに広域火葬計画を進めるうえで、現在の日本の火葬事情では、悩ましい点もあるんです。実は日本では、年々火葬場の数が減っていってるんですよ。
多死社会の日本で、火葬場の数が減少している理由
――多死社会と言われているのに、火葬場の数は減っている?
下駄 そう。多死社会だから、火葬の件数自体は増えています。つまりどういうことかというと、1つの火葬場で火葬する件数が増えてきているんです。
例えば、ある街に、1日5件火葬できる火葬場が2箇所あったとします。年々死者数が増えている関係で、街は新しい火葬場の立ち上げを計画することに。しかし、近隣住民から火葬場新設への反対意見があがりました。同時に、同じ街の中で2つも火葬場があることに苦言を呈する人も出てきます。
現実問題として、火葬件数は増やさないといけません。そこで街は「今2つある火葬場を1つにまとめましょう。その代わりに、1日に10件ではなく、15件できるよう改修しましょう」と提案する。そんな状況が、日本各地で起こっているんです。
――住民の意見を汲みながら、火葬件数を増やせるという点ではいい案のように思えますが、災害時を考えると問題がある、と。
下駄 はい。街に1つしかない火葬場が災害で稼働できなくなったら、その地域では全く火葬できなくなってしまいます。災害対策の面から考えれば、いろんな地域のいろんな場所に火葬場があることが理想です。
――平常時の効率性と災害時の対応力、この2つのバランスを取るのは難しそうですね。
下駄 そうなんです。「うちの近くに火葬場があるのは嫌だ」という意見がとにかく多く、どんどん火葬場の数は減り、街の中でも人気のないところに追いやられていく。住人の気持ちももちろん分かるのですが、災害時を考えると正直心配です。
火葬場は重要な社会のインフラ
――そういう話を聞くと、火葬場って重要な社会のインフラなんだな、と感じます。ご遺族の精神的なケアという面だけでなく、衛生面や社会機能の維持という点でも、火葬場がないと大変なことになりますね。
下駄 日本全国に火葬場はありますが、その規模はさまざまです。例えば日本最大規模と言われる名古屋の八事斎場には、46基もの火葬炉があります。2回転すれば、1日でほぼ100件の火葬ができる計算ですね。
一方で、地方の小さな火葬場だと、炉が2つしかないところも少なくありません。ただ、どんなに人口の少ない地域でも、どんなに小規模な施設でも、故障や災害に備えて最低2つの炉を維持しているところがほとんどです。まさに、インフラだからこその備えですよね。
――下駄さんには、これまでも度々取材をさせていただきました。そのたびに、「火葬場の現状が広まってきていると思いますか?」と聞いてきましたが、最近は何か変化を感じていますか?
下駄 最近、知り合いの葬儀屋さんから面白い話を聞いたんですよ。ご遺族から「火葬後の骨についているカラフルな色は、花の色じゃなくて金属の色なんでしょう」という質問が増えているんですって。
僕が火葬場で働いていたときは、まずそんな質問をされることがなかった。また、これまでYouTubeや漫画で何度か「骨についた色は金属の色だ」と発信してきましたが、そのたびに驚かれることも多かったんです。でも少しずつ、変わってきてるというか。現場の人たちから今回のような話を聞く機会が増えてきて、すごく良い変化だな、と思っています。
元火葬場職員が「日本は“死”をタブー視している」と感じるワケ
――これまでは閉ざされた場所、触れにくい領域と思われていた火葬場について、情報が出回ることで関心を持つ人が増えてきているんですね。
下駄 はい。一方で、日本はまだまだ火葬場というか、“死”をタブー視しているな、と思った出来事もあって。
先日、台湾でトークイベントをする機会があったんですよ。その時に、「日本では、焼骨に色がついていたら、本当は金属の色なのに『花の色が移った』と説明する文化があった」と話したところ、「そんなはずがないだろ」って会場から大きな笑いが起こったんです。
――国による文化の違いが表れていますね。
下駄 日本では、“死”に関する話題でドッと笑うことってないですよね。国によって死生観や火葬に対する意識がこれほど違うのかと、興味深かったです。
――他にも台湾と日本の火葬や葬儀に関する違いを感じた点はありますか?
下駄 台湾の火葬では、ご遺体が炉に入る瞬間に参列者が一斉に「逃げて!」と声をかける文化があるそうです。なんでも、ご遺体の魂に向けて、火から逃げるように呼びかけているんだとか。日本では想像しがたい光景ですよね。
火葬場への理解が、災害への備えとなる
――最後に、東日本大震災や能登半島地震のような大災害は、今後も起こる可能性があるというニュースをよく目にします。今回のインタビューでは「火葬場はインフラ」という話も出てきましたが、これからの社会の火葬場について、どう考えていますか?
下駄 火葬場の建設計画が持ち上がると、必ず反対運動が起きます。でも実は、その影響をもっとも受けるのは反対している住民自身なんです。施設がなければ、何かあったときに火葬の待ち時間は非常に長くなる。もし大規模災害が発生したら、火葬そのものができなくなってしまうかもしれません。
「自分の住む地域には建ててほしくない」という気持ちはわかります。でも、災害の可能性も含めて少し考えていただき、火葬場の必要性を理解する人が増えてくれたら……。
これから来るであろう大規模災害に向けて、少しでも多くの地域で火葬機能が維持できるよう、今からできることをしていく。それが、亡くなった方への最後の敬意を表すことにもつながると思います。
撮影=細田忠/文藝春秋
〈 「なにこれ…」飛び込み自殺でバラバラになった遺体を火葬、遺骨に混ざっていた“ありえないモノ”とは 〉へ続く
(仲 奈々)

もめ事で駆け付けた警察官をフライパンで殴る「いきなり乗り込んできて腹が立った」北海道釧路市

警察官をフライパンで殴る!「乗り込んできて腹が立ち」とはいえ殴ってはいけない 北海道釧路市
きのう(2025年3月10日)、北海道釧路市内で、もめ事との通報をうけて自宅に来た警察官を、フライパンで殴った男が逮捕されました。
公務執行妨害などの疑いで逮捕されたのは釧路市に住む53歳の男です。
10日午後0時30分ごろ、男の妻から「もめ事です」と通報があり、警察官が男の自宅に駆け付けたところ、男が、この警察官の顔をフライパンで一発殴りました。
男は「家に警察官がいきなり乗り込んできて、腹が立って叩いてやった」と容疑を認めています。