事件の家宅捜索先で無抵抗の男性に暴行を加えたとして、大阪府警の警部補と巡査部長が逮捕された事件で、捜索先に居合わせた別の男性も「全身を合計で200発くらい殴られた」と説明していることが7日、関係者への取材で分かりました。
大阪府警捜査4課・警部補の時長力容疑者(51)と、巡査部長の阪口裕介容疑者(32)は7月、性風俗などの仕事を紹介するスカウトグループへの事件捜査で家宅捜索した際、無抵抗だった20代の男性の頭や顔を複数回、平手打ちするなどの暴行を加えた疑いが持たれています。
関係者によりますと、捜索先には他にも事件関係者の男性2人がいましたが、このうち1人が「警察官が多数なだれ込んできて、いきなり殴られた。全身を合計で200発くらい殴られた。救急病院に行った」などと説明していることが新たに分かりました。この男性は「4、5人から殴られた」とも話しているということです。
現場に設置されていた防犯カメラにも一部の暴行の様子が映っていて、警察は他にも暴行に加わった捜査員がいないか、当時の状況を詳しく調べています。
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維新・吉村洋文代表が続投 所属議員による電子投票の結果“代表選を実施しない”ことに 共同代表には3人が立候補
日本維新の会は党の代表選を実施しないことを決めました。吉村代表が続投します。
(日本維新の会 吉村洋文代表)「公約で掲げたことを実行するというのが政党として最も重要なことだと思うので、誰がどういう体制になろうと、挙党一致態勢で進めていくべき。国民の皆さんに約束したことを実行するのがわれわれの職責だということを、党として認識して進めていけたら」
8月7日午後6時、党本部で会議を開いた日本維新の会の幹部たち。今回の参院選で前回を上回る7議席を確保したものの、比例代表の得票数を大きく減らしたことなどから、前原共同代表や岩谷幹事長ら執行部は5日、引責辞任する意向を表明していました。
そして先ほど、吉村代表に代わる代表選挙を実施するかどうか、所属議員による電子投票を行った結果、代表選を実施しないことを決定。これにより、吉村代表の続投が決まりました。
一方、前原氏の後任となる国会議員団の代表を決める選挙が行われるのを前に、7日夕方、藤田文武前幹事長、松沢成文参院議員、斉木武志衆院議員が立候補を届け出ました。8日の両院議員総会で立合演説会が行われた後、投票が行われ、新しい共同代表が決まるということです。
維新内部では「副首都構想」の実現と引き換えに自公との連立を求める声もあり、新執行部が少数与党とどう向き合っていくのか注目されています。
相互関税巡り石破首相、アメリカ側に「修正措置を強く求めている」…合意内容は「日米間に齟齬ない」
石破首相は7日夜、同日発動されたトランプ米政権の「相互関税」の新たな税率について、日米合意の内容通りに修正するよう米側に要求していることを明らかにした。首相官邸で記者団に、「すでに適用が開始された大統領令を修正する措置をただちに取るよう、米側に強く求めている」と語った。
日米両政府は7月、日本への「相互関税」の税率を15%とすることで合意した。日本側は、すでに15%以上の関税が課されている品目には相互関税を上乗せしないことなどで米側と合意した、と説明している。
首相はこうした合意内容について、訪米中の赤沢経済再生相が米側と改めて確認したと述べ、「日米間に齟齬(そご)はない」と強調した。
愛知・豊田市のマンション女性遺体、殺人容疑で逮捕の男が死亡…名古屋拘置所
愛知県豊田市のマンションで6月、住人の会社員女性(19)の遺体が見つかった事件で、殺人容疑で逮捕されたパート従業員安藤陸人容疑者(20)が鑑定留置中に死亡した。関係者への取材でわかった。名古屋拘置所の単独室で、タオルケットを首に巻き付けていたという。遺書も見つかっており、自殺とみられる。
安藤容疑者は今月2日、うつぶせの状態で見つかった。同拘置所は4日、収容中の男性が死亡したと発表したが、名前は明らかにしていなかった。
再任決定の維新・吉村代表「石破政権は政策推進力がなくなってきている」と連立否定 代表選実施は反対多数
7日、日本維新の会の常任役員会で代表選の実施についての電子投票の結果が発表され、「実施に反対」が多数で吉村代表の再任が決定しました。
7月の参議院選挙で、維新は関西以外で議席を伸ばすことができず、前回の参院選から比例代表での得票数を大幅に減らしていることから、今回の電子投票は事実上、吉村代表の信任を問うものとなりました。
電子投票は、5日から7日の間に国会議員や地方議員などの特別党員を対象に実施され、投票者数617人のうち代表選実施に賛成が93人、反対が521人、白票が3人で、代表選は実施せず、吉村代表の再任が決まりました。
結果を受け吉村代表は「93票の皆さんは、吉村ではだめだという貴重な意見。一方で521票の皆さんがもう少し頑張れと。であれば僕も、責任を持って進めていこうというふうに考えています」などと話しました。
また、与党との連立の可能性を改めて記者に問われると、「石破政権は政策推進力がなくなってきている。そういった意味では連立するつもりはない」と否定しつつ、「今、連立うんぬんを言うつもりはない」となどと答えました。
8日には、前原氏の引責辞任に伴う共同代表の選挙があり、国会議員団らによる投票で決定します。
参院選で「無効票」2600票水増しか、東京・大田区選管…不在者投票の集計ミスでつじつま合わせ
7月20日投開票の参院選で、東京都大田区の担当者が不在者投票数を二重に計上し、つじつまを合わせるために無効票を約2600票水増し処理していたことが関係者への取材でわかった。区選挙管理委員会が近く公表する。
関係者によると、担当者は投開票日当日に不在者投票数を集計する際、前日までの票数を二重に計上。その後、実際の投票数と誤差があることに気づいたが、無効票を水増しして処理することで、つじつまを合わせていたという。
無効票の水増しは過去にも他の自治体で起きている。仙台市青葉区では2014年衆院選で投票者数と投票数に約1000票の差があったが、白票を水増し処理するなどし、当時の区選管課長らが公職選挙法違反(投票増減)容疑で書類送検された。滋賀県甲賀市でも17年衆院選で、未使用の投票用紙を白票として集計し、当時の市選管事務局長ら4人が同法違反容疑で書類送検された。
「マグロはすべて捨てろ」、終わらない核の脅威突きつけた「第五福竜丸事件」…実験での「ヒバクシャ」は世界各地に
被爆<下>
米国の水爆実験で船員らが被曝(ひばく)した1954年の「第五福竜丸事件」は、終わらない核の脅威を突きつけた。「再び被爆者を作らない」との機運を高めたが、核実験による「ヒバクシャ」は世界各地にいる。
54年10月、高知県のマグロ漁船「第11冨佐丸」が東京・築地の港で水揚げしようとした時のことだ。「マグロはすべて捨てろ」。突然、白い服を着た検査官4~5人がやってきて、廃棄するよう指示した。
機関長だった横山幸吉さん(95)(高知県土佐清水市)は、船員たちと1日がかりで約100トンのマグロを沖合に戻した。
米国は54年3~5月、太平洋ビキニ環礁周辺で6回の水爆実験を行った。3月1日の実験では操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝し、23人が高放射能の「死の灰」を浴びた。
第11冨佐丸もこの頃、1500キロ以上離れた太平洋上で数か月かけて操業していた。横山さんらは、毎日釣り上げた魚を船上で刺し身にして食べていた。帰港したのは、第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さん(当時40歳)が急性放射能症で死亡した翌月だ。
「また広島と長崎のようなことがあったのか」。横山さんは衝撃を受けた。
横山さんは44年から長崎市の三菱兵器製作所のトンネル工場で、旋盤工として魚雷の部品を作っていた。45年8月9日。工場内の電気が突然消え、トンネル内に吹き込んだ爆風で吹き飛ばされた。外に出ると、辺り一面、火の海だった。
翌日から飲まず食わずで、やけどで皮がめくれた瀕死(ひんし)の人を板に乗せて何人も運搬した。「このままでは自分も死んでしまう」と数日後に汽車に飛び乗り、故郷の高知を目指した。
その途上、車窓から広島の街が見えた。一面の焼け野原に広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)がぽつんとたたずんでいた。「破壊された街を二度も目にするとは」。停車した広島駅ではタンクから漏れ出る水をむさぼるように飲んだ。
終戦の報は、故郷にたどり着く直前に聞いた。
54年に第11冨佐丸に一緒に乗っていた仲間ら9人は相次いでがんで死亡。被曝の影響を疑った。2016年に高知県の元船員らがビキニ環礁周辺での水爆実験を巡って起こした国家賠償請求訴訟に原告として加わる。損害賠償は得られなかったが、被曝は認められた。すでに90歳となっていた。
同じ頃、53歳だった一人娘の浩子さんががんで死去した。被爆による2世への遺伝的影響は明確に証明されていない。しかし、自身のせいかもしれないとの思いが湧き、「すまない」と心の中でわびた。地元の高校生に体験を話し始めた。
横山さんは「同じように苦しむ人が二度と現れてほしくない」と願う。
冷戦下で核開発競争が進み、世界で2000回を超える核実験が行われた。米国は、ネバダ州だけで1951~62年に93回の大気圏内核実験を実施。周辺地域で放射性降下物が飛散し、6万~10万人の「風下住民」が被曝したとされる。
実験場の北東にあるユタ州ソルトレークシティーで生まれ育ったメアリー・ディクソンさん(70)もその一人だ。同級生ががんで次々と亡くなり、自身も20歳代で甲状腺がんを患った。1歳上の姉は46歳の時、免疫疾患で亡くなり、妹もがんで闘病中だ。
風下住民は、政府の補償を求め、90年に放射線被曝補償法が成立。今年、対象地区が拡大された。
ディクソンさんは、核実験の被害を伝えるため、世界中で講演し、広島や長崎の被爆者とも連帯して核廃絶を訴えている。「原爆が爆発した時から人間の犠牲が始まり、今も続いている。被爆者も含め、私たちの語る言葉は今こそ重要になっている」と話す。
被爆から80年 広島原爆の日「絶対にこの地球から核兵器がなくなってほしい」夜明け前から平和公園に多くの人、犠牲者を追悼
きょう広島は80回目の原爆の日を迎えました。
爆心地に近い広島市中区の平和公園では、夜明け前から多くの人が訪れ、犠牲者を追悼しています。
14歳で被爆した男性(94) 「7人家族で6人が亡くなった。私1人が残った。80年が経ったが、絶対にこの地球から核兵器がなくなってほしい」
このあと午前8時から執り行われる平和記念式典には、過去最多となる120の国と地域が参列する予定です。
広島市の松井一実市長は平和宣言で核兵器廃絶をあきらめない被爆者の思いを伝え、世界の指導者に核抑止に依存する政策の転換を訴えます。
「死の街に電車を走らせても、乗る人々がいるだろうか?」広島に原爆が落ちた当日、路面電車を“奇跡的復旧”させた人たちの「知られざる奮闘」
陸軍が拠点を置く「軍都」として、40万人前後が暮らしていたとされる広島県・広島市は、1945年8月6日に投下された原子爆弾(原爆)によって、筆舌に尽くしがたい被害を受けた。投下から43秒後に地上600メートルで炸裂、摂氏100万度の火球からは強烈な熱、高圧の爆風、そして放射線が発せられ、この年に約14万人が亡くなったとされている(正確な実数は不明)。
市民の足として機能していた「広島電鉄」も「市内の建物51カ所のうち50カ所が倒壊」「従業員の3割以上が死亡・負傷」という壊滅的な被害を受けた。しかし、生き残った人々が絶望に打ちひしがれる中、一部区間とはいえ早くも当日に復旧し、無賃で市民を乗せた。焼け野原を走る電車の姿を見て、多くの広島市民が「もう電車が動くんか!」と、驚いたという。
同様に原爆の被害を受けた長崎電気軌道は復旧に3カ月を要した一方、なぜ広島では、被爆当日から乗客を乗せて、路面電車を走らせることができたのか。
当時、広島電鉄で電気課長を務めていた松浦明孝氏の手記と、その手記をまとめた書籍『 だから路面電車は生き返った 』(南々社)の著者で広島電鉄・元運転士の中田裕一さんへの取材、広島電鉄の社史などを基に当時の様子を辿ってみよう。(全2回の1回目/ 続きを読む )
通勤・通学ラッシュの時間帯に、原爆は炸裂した
原爆が投下された時間帯はちょうど朝の通勤・通学ラッシュでもあり、走行可能な車両のほとんどが市内を走行中であった。いまと違って当時の車体は木造が多く、爆心地近くの電車は乗客・乗員とも一瞬で焼き尽くされたという。
関係者によると、爆心地から1キロ内を走っていた21両はおそらく超満員。計2000人はいたであろう乗客のうち、生き残ったのはわずか十数名であった。ブレーキ操作を行う間もなく運転士は一瞬で焼け焦げ、飛び降りて助かった乗客が振り返ると、電車は燃え盛りながら惰性でレールの上を走っていたという。
「死の街に電車を走らせ、乗る人はいるのか?」
広島電鉄の従業員も1241人中、185人が命を落とした。特に、屋外作業中であった人々は瞬時に熱戦・爆風の被害を受けており、爆心地近くで市内中心地付近の紙屋町で電線・電柱の整備作業中であった「架線係」は全員死亡。紙屋町・的場町・土橋などの地上で線路分岐を手動操作していた「ポイントマン」も、多くの人々が落命した。
運行を担う設備も、市内の送電を担っていた櫓下変電所は一瞬で倒壊し、中にいた人々は即死。本社の前にあった千田町変電所も屋根が落ち、整流器にガラスが刺さって使用不能となった。
本社や車庫では火災こそ発生しなかったものの、123両の車両のうち全焼22両、半焼3両、大破23両、小中破が60両。もともと故障していた12両を除くと、無傷で動けた車両はたったの3両しかなかったという。
路面電車は車両・設備・人材・すべてを徹底的に破壊され、焼き尽くされた広島の街並みには、歩く人々すらほとんどいない。松浦課長もあたりを見渡して「路面電車はもうダメだな、と思った」と第一印象を手記に記しており、会社幹部ですら「瓦礫の街に電車を走らせることはできるのか」「死の街に電車を走らせ、乗る人々があるだろうか?」と議論するような状況であったと手記に残している。
ところが、広島電鉄はあっという間に乗客を乗せ、ふたたび走り出している。
「電車が走れば、勇気が湧く」呼びかけに応じた人々がかいた汗
無事に助かったと思われた人々も放射線障害(原爆症)によって、続々と命を落としていく中、生き残った社員たちは伊藤信之常務(当時)の「焼け野原に電車が走れば、みんな勇気も湧き、喜んでくれるに違いない」との呼びかけに応じて、手分けして線路上を歩いて線路・車両・橋の状態を確認していった。
当時は出征した男性運転士に代わって、広島電鉄が創設した「広島電鉄家政女学校」の生徒が電車の運転・車掌業務を担っており、彼女たちも8月の炎天下をくまなく歩きまわった。こうした活動により「電柱が842本中393本が倒壊」を中心に、克明な被災状況を把握できた。
被爆当日に復旧できた理由
電車は、動かすための電気がないと走れない。その点、広島電鉄は市内中心部を走る路面電車(軌道線)以外に郊外を走る宮島線(己斐(現:広電西広島)~宮島(現:広電宮島口)の16.1キロ)があり、その電気供給を担う廿日市変電所が爆心地から西に15キロほど離れていた。
松浦課長の8月6日の手記を見ると「廿日市変(変電所) 無事 宮島線被害軽微」と記されており、さらに中田さんによると、当時は己斐に宮島線の車庫があり、そこや宮島に架線柱などのメンテンナンス資材を疎開させていたことも功を奏した。復旧作業にすぐ当たれた。また、宮島線は爆心地から比較的遠いこと、さらに市内の路面電車と架線の構造が異なることなどもあって、当日の昼過ぎには一部区間(草津~宮島)で、翌7日には己斐まで無賃での全線復旧を果たす。
しかし、電気は遠い距離に送るほどロスが生じ、まとまった量の送電はできない。そのため、宮島線以外の市内線で即座に復旧できたのは、できるだけ宮島線寄りの己斐~西天満町(現:天満町)に限られた。同区間は、一般的な路面電車とは異なり「専用軌道(新設軌道)」と呼ばれる構造で被害が軽微だったことも背景にある。この区間は8日に試運転を行い、9日の午後に復旧を果たしている。
広島と長崎、路面電車の復旧に差が生まれた理由
広島電鉄が被爆当日から復旧できた一方、同じ原爆被害を受けた長崎の路面電車では一部区間で復旧したのが被爆3カ月後の1945年11月。なぜここまでの違いが生まれたのだろうか。
まず長崎電気軌道は、郊外路線のある広島と違って、市街地の軌道線しかなく、現在の「長崎スタジアムシティ」北側にあった変電所が焼き尽くされてしまった。かつ長崎は電車運行の心臓部であった大橋営業所・車庫が爆心地から約500メートルという至近距離にあり、多くの人々がここで落命する被害を受けている。
携わる人々が路面電車を復旧させるために汗を流したことに、もちろん変わりはないだろう。しかし、変電所の位置や爆心地と車庫・本社の距離で、電車復旧に大きく違いが出てしまった。
大半の区間は未復旧……2度の台風被害も乗り越え、どう復旧したのか?
被爆からわずかの期間で広島電鉄が復旧したことは広島市民をかなり驚かせたようだ。
広島電鉄が発行した『広島電鉄開業80創立50年史』には、一番電車を運転した運転士さん・車掌さんの「みんな『電車が動くじゃないか』とたまげて見てくれたんがね」「ただで乗っても『料金を』とか言わりゃせん。銭金じゃなかったから」など、当時を回想するコメントが残っている。
しかし、一部で走り出したとはいえ、市内中心地を走る大半の区間の復旧はこれから。原爆による甚大な被害に加え、秋口にかけて2度の大型台風にも襲われながら、広島電鉄は様々な人々に助けられつつ、復活への道を歩んでいく。
〈 原爆から無傷で生き残った車両は「わずか3つ」…広島電鉄の“奇跡的スピード復旧”を支えた「名もなき人々」とは 〉へ続く
(宮武 和多哉)
砂浜陥没で4歳死亡、県がブロック管理の不備認める…「仮設物」巡視・点検対象に含めず
宮崎県日南市で2022年、消波ブロックが埋まった砂浜が陥没し、生き埋めとなった4歳男児が死亡した事故で、海岸を管理する県がブロックの維持管理を怠った不備を認め、県内全海岸で管理方法を是正する方針を固めたことがわかった。「撤去予定の仮設物」だとして巡視・点検対象に含めず、危険を周知する看板も設置していなかった。国土交通省も経緯を把握しており、海岸に設置するブロックなどの工作物を安全に管理するよう、全国の自治体などに通知する方針だ。(波多江航、野崎達也)
宮崎県などによると、事故は22年4月29日に日南海岸国定公園内にある伊比井(いびい)海岸で起きた。砂浜には1~2トンの6脚型ブロックが約360個積まれ、大半は砂に埋もれていた。
男児は秋田県から母親らと旅行中、砂浜を歩いていて砂に埋もれたブロック間にできた陥没に巻き込まれ、窒息死した。海岸はサーファーらに人気のスポットだが、立ち入り規制や危険を知らせる看板はなかった。
読売新聞が宮崎県に情報公開請求して開示された工事記録によると、ブロックは県が16~21年に同海岸で行った護岸の改修工事の際に砂浜に仮置きされ、工事完了後もそのまま残された。県は、陸側の土地が海水で削られる「浸食」を防ぐためだったと説明する。事故原因については、現場の砂浜を流れる水路の水によって、砂に埋もれたブロック間の砂が吸い出されて空洞が生じ、陥没につながったと推定している。
県は海岸法に基づき、津波や高潮による浸食などを防止するため設置した堤防や護岸などの「海岸保全施設」については、異常がないか巡視・点検していたが、ブロックは仮設物と認識し、対象としていなかった。開示された巡視・点検の日誌にも、ブロックに関する記述や写真はなかった。
県河川課は読売新聞の取材に「当時は危険だという認識がなかったが、原因が明確になった今では危険だったという認識だ。(結果的に)巡視・点検ができていなかった」と不備を認めた。その上で、全海岸を対象に、今月中にも、保全施設に限らず海岸に置く全ての工作物の巡視・点検を徹底し、危険を知らせる看板を設置する方針を明らかにした。再発防止策がまとまれば公表する予定だ。
読売新聞の問い合わせで経緯を把握した国交省は、「海岸管理者である県が砂浜にブロックのような工作物を設置する場合は、仮設であっても事故が起きないよう、安全な状態に保たなければならない」と指摘。類似の事故を防ぐため、注意喚起の看板を設置したり、立ち入り禁止にしたりするなどの安全確保を徹底するよう、海岸を管理する全国の地方整備局や各自治体に通知する方針だ。
事故を巡っては、宮崎県警が県の管理責任者を業務上過失致死容疑で書類送検し、宮崎地検は23年4月に不起訴とした。県は再発の恐れがあるとして、事故直後から周辺を立ち入り禁止とし、今年7月末までにブロックの撤去を完了した。
「巡視・点検不要」誤った認識
宮崎県がブロックの維持管理の不備を認めるのに3年を要したのは、海岸保全施設でなければ巡視・点検は不要との誤った認識にとらわれていたからだ。再発防止の観点を欠いた認識だったと言わざるをえない。
海岸法や同法施行規則は災害時などの海岸防護に支障を及ぼさないよう、保全施設の巡視・点検を求めている。ブロックは埋設されていたものを護岸工事の際に掘り出し、余った分を陸地の浸食防止を理由に砂浜に置いていたといい、保全施設として整備しなかった。だが、海岸に工作物を置く以上、一時的な「仮設」でも予期せぬ危険が生じる恐れがあるのに変わりはない。
現場では一部のブロックが崩れ、散乱していた。同様のブロックを保全施設としている海岸では、強度を増すためにブロック同士の突起をかみ合わせ、巡視時の確認項目に「散乱」を設けている。維持管理が徹底されていれば、事故は防げていたのではないか。
国土交通省は、仮設物でも安全な状態を保つのが管理者の責任だとの考えを示した。同じように「巡視・点検の網」から漏れている工作物は全国にあるとみられる。国と自治体には、幼い命が失われた宮崎の教訓を生かす責務がある。
(波多江航)